ピアノとチェンバロに向き合う「ミスター・バッハ」の目指すところ
これまで日本で紹介されてこなかったのが不思議である――フランスを代表する伝説的チェンバロ奏者ドレフュスの高弟であり、オックスフォード大学で音楽学の博士号を取得した研究者でもある。更には出版社・レコード会社の副社長と編集者を務めたこともあり、映像作家としてジェシー・ノーマンや安倍圭子といった一時代を画した音楽家のドキュメンタリーを制作したことも……。アーティストとしてだけでなく実務家としての能力も高いうえ、温かみのある謙虚な人柄で誰もを惹きつけてやまない。そんな多彩な魅力を持っているのがオルハン・メメッドという音楽家だ。
米国出身のメメッドは、ヨーロッパに留学する以前から周囲に「ミスター・バッハ」と呼ばれていたほど、ピアノでJ.S.バッハばかり弾いていた。先生から「そんなにバッハを愛してるなら、ピアノより前の時代の音楽を理解するべきじゃない?」と言われて、彼はバッハより前の音楽を知らないことに気付いたという。その後、オックスフォード大学で17世紀の英国鍵盤音楽を研究した経験が大きな契機となり、チェンバロへ軸足を変更。ピアノだけを学んだ頃と違い、作品をアカデミックに研究し、作曲家に近づく姿勢が培われた。
しかしチェンバロとストイックに向き合うほど、改めてピアノの魅力にも気付いたという。「バッハを弾くピアニストは2種類に分かれると思います。書いてあることには従いながらも自分を出すタイプ、ピアノでもチェンバロに近づけた繊細なタッチを追求するタイプ……でも、どちらも違うと思うんです(笑)。チェンバロには真似できない魅力や機能がありますよね。現代のピアノが一番美しく鳴るやり方を見つけるべきなんです」。ふたつの楽器の奏法は大きく違い、両立は難しいと謙虚に語るメメッドだが、並行して取り組んでいるから見えてきた部分にこそ、彼ならではの個性の発露があるのだろう。
この度、日本でもメメッドがチェンバロで弾くバッハのCDがオフィシャルに販売されることになった。《ゴルトベルク変奏曲》(18世紀に制作された楽器を使用)、《6つのパルティータ》のどちらにおいても、流麗さと明晰さが驚異的なレベルで両立されており、このディスクでもふたつの楽器に向き合ってきたメメッドならではの個性を存分に聴くことが出来るはず。今後はスカルラッティのレコーディングを準備中とのことだが、チェンバロとピアノのどちらで弾くかは「まだ分からない(笑)」とあくまで視点はフラットで開かれたままだ。スペシャリストでありながらも、常に大きな視野のなかで柔軟に音楽と向き合ってきたメメッドの活動に、是非ともご注目いただきたい。