パワフルでオリジナルな活況を呈するアジア各地の音楽シーンの〈今〉をライター/編集者の大石始をナヴィゲーターに迎え、当事者たちへのインタヴューでお伝えする本連載〈アジアNOW! ~アジア音楽最前線~〉。第4回は、10月7日(土)より公開される形国際ドキュメンタリー映画祭2017のアジア千波万波部門で、奨励賞と日本映画監督協会賞をダブル受賞したインドの音楽ドキュメンタリー映画「あまねき旋律(しらべ)」を取り上げます。

インド東部にあるフェク村という村の人々の生活に根付いた、知られざる〈歌〉にフォーカスを当てた同作。映画に賛辞を寄せるピーター・バラカン氏が〈楽器も何も要らない皆の呼応する歌声が日常の潤滑油になっています〉とコメントを寄せているように、日々の稲作作業の中で口ずさまれる彼らの〈歌〉は、ときに恋人たちが愛情を伝え合う手段ともなるのだそう。それは日本にも古来から伝わる民謡とも言えますし、現代においてのラップとも言えるかもしれません。そんなインドの秘境に存在する、古くて新しい、限りなくリアルな〈歌〉に、2人の監督へのインタヴューを通して迫りました。 *Mikiki編集部

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映画「あまねき旋律(しらべ)」は霧雨のなか、村民たちが棚田の雑草を刈り取るシーンで幕を開ける。女たちは水分をたっぷり含んだ草々を刈り取りながら、作業に合わせてこんな歌を口ずさむ――〈愛しているから、あなたのそばにいるの〉。

とある山村のサウンドスケープを映し取ったこのファースト・シーンに象徴されるように、「あまねき旋律(しらべ)」というドキュメンタリー映画は、さまざまな音と言葉が響き合う天然のアンビエント作品という一面も持っている。例えば、クリス・ワトソンのフィールド・レコーディング作品のように思わぬところから鳥や獣の鳴き声が聴こえてくることがあれば、山肌をなでるように吹き込む突風がドローンのように響き渡ることもある。そうした自然音の響きはまるでオーケストラのよう。一編の音楽作品として本作が極めて魅力的な作品であることを最初に強調しておきたい。

本作では村民たちが稲作の作業のなかで口ずさむさまざまな歌が全編を覆っているのだが、これがまた素晴らしい。そうした歌は労働の辛さを紛らわすものであると同時に、村民同士の結束力を高めるためのものでもある。歌というよりも、一種の掛け声のようなものとも言えるだろうが、その歌の連なりはヴォーカル・グループによるアンサンブルのようで、聴いているとその複雑さにめまいがしてくるほど。本作はそうした極めてユニークな歌の世界を思う存分堪能することができる〈音楽映画〉でもあるのだ。

本作の舞台となるのは、ミャンマーや中国(チベット、雲南省)などとも隣接するインド東部の州、ナガランドのフェク村。インドとミャンマーの国境エリアには標高1,000メートル以上の山々がそびえ立ち、多くの山岳民族が暮らしているが、フェク村に住んでいるのもそうした山の民たちだ。

ナガランドは19世紀にイギリスの植民地支配を受け、戦後、インドの一部としてイギリスから独立。半世紀以上に渡ってイギリスからの独立闘争が続けられてきたことから、インドのなかでも経済発展の遅れている地域とされる。本作はそんなナガランドの山村で長期撮影を試み、アジアの多くの地域で失われつつある農村の光景を丹念に記録したドキュメンタリー作品だ。

監督を務めたアヌシュカ・ミーナークシとイーシュワル・シュリクマールはインドのポンディシェリーで活動を続ける映像作家。アヌシュカはムンバイ生まれで、イーシュワルはデリー生まれ。いわば都会生まれのインド人作家だ。彼らはなぜアジアの秘境ともいわれるナガランドに足を踏み入れ、何を映し取ろうとしたのだろうか? 上映に先駆けて、日本にやってきた2人にインタヴューを試みた。

 

(左から)イーシュワル・シュリクマール、アヌシュカ・ミーナークシ
 

――お2人がフェク村の歌に出会うことになった経緯を教えてください。

アヌシュカ・ミーナークシ「最初にフェク村を訪れたのは、音楽と労働の関係性をリサーチするプロジェクトがきっかけだったんです。そのときは村で(プロジェクトに関連する)短編映画の上映会もやったんですが、村民に〈こういうものに関心があるのだったら、ウチの村にもこんな歌があるよ〉と教えてもらったんです」

――それで農作業に同行することになったと。

アヌシュカ「そうですね。ちょうど収穫の時期だったので、刈り取った稲を運ぶ作業に同行させてもらいました。村までの2時間、彼らは歩きながらずっと歌を歌ってるんですが、その美しさに驚かされました。辛い道のりでも歌があると不思議と乗り越えられるんですね。疲れを吹き飛ばしてしまうような歌だったんです」

イーシュワル・シュリクマール「しかも彼らは80キロの収穫物を背負いながら歌うんですよ。その声がとても力強く、なおかつ複雑な歌で、とても驚きました」

――確かにすごく複雑な歌ですよね。フェク村の村民であれば誰もが歌えるものなんでしょうか?

アヌシュカ「子供からお年寄りまで、誰もが日常的な所作の一環としてああいった歌を歌ってるんです。日々のちょっとした労働はもちろん、例えば坂を登るときなどでも歌を歌うんですよ。ただ、彼らは自分たちが歌っているものを〈歌〉として認識していないんです。呼気みたいなものですよね」

――人に聴かせるためのものではなく、日常的な動きと連動した掛け声のようなものということですよね。日本人なら腰を下ろすときに〈ヨイショ〉と言うような感じなのかな。

アヌシュカ「ただ、長老や何人かの人たちは、フェク村にどういう歌が伝わっているのか記録する必要性を感じていたようなんです。私たちに最初に手を貸してくれたのはそういう人たちでした。彼らは自分たちの歌が楽譜などに起こせないものであることは自覚していて、だからこそ映像というメディアを通して記録することに意味を感じてくれたんです」

――男女が輪になって飛び跳ねながら脱穀するシーンがありますが、みんなすごく楽しそうなんですよね。彼らにとっては娯楽という側面もあるんじゃないかと思いました。

アヌシュカ「そういう一面もありますね。荷物を運んで山道を歩くときなどは、休憩中も歌を歌うんですよ。お互いをエンターテインするための歌が歌われることもあって、すごく興味深く感じました」

――〈お互いをエンターテインするための歌〉?

アヌシュカ「そうです。例えば彼らは即興的に歌詞を作って、まるで会話をするように歌うんです。恋心を持っている男女がじゃれ合うように歌い掛けることもありますね。それも直接的な言葉じゃなくて、〈花がとても綺麗だね〉〈今日は太陽の日差しが美しいね〉といった暗喩で恋愛感情をお互いに伝えるんですよ。当人同士でしかわからない隠された表現で、そうしたコミュニケーションが行われることもあるんですよ」

――即興のラヴソングということですよね。日本でもかつては〈歌垣〉という男女の掛け合い歌の風習があったんですが、それを連想します。

アヌシュカ「そうなんですか。それは興味深いですね」

――かつての日本でも農作業のなかでこうした歌が歌われていたんですが、現在ではそのほとんどが消え去ってしまったか、保存会などの形で〈保存〉されるものになってしまったんですね。でも、フェク村では現在も生活のなかで歌い継がれているわけですよね。こうした村はナガランドでは珍しいものではない?

アヌシュカ「そうした村はいくつかはありますね。そのなかでもフェク村の村民は特別に自身の文化にプライドを持っている人たちなんですよ。祭りの日には若者たちに教える機会があったりと、継承に対して意識的なんです」

――では、ナガランド全体としてはこうした習慣は失われつつある?

アヌシュカ「そうですね。フェク村ほど多様な歌が歌われている場所は稀だと思います。ナガランドの多くの地域では、キリスト教が伝来した影響でそれまで歌われていた歌の多くが失われてしまったんですが、そこから自分たちの文化を復興させようという運動が起きたんですね。フェク村もそうした運動のおかげでさまざまな歌が蘇ったんです」

――ナガランドにはテツェオ・シスターズのように、ナガランドの文化を現代的に表現しているグループもいますよね。彼女たちのようなグループは他にもいるんでしょうか?

テツェオ・シスターズのパフォーマンス映像。彼女たちは伝統衣装を纏い、ナガランドの伝統音楽をベースにしたポップスを歌う、94年結成の四姉妹ヴォーカル・グループで、本国の若年層を中心に人気があるという
 

イーシュワル「(ナガランド州の州都である)コヒマを初めて訪れたとき、とあるスタジオを訪れて歌い手を紹介してもらおうと思ったんですよ。そうしたら〈あの三姉妹はコヒマにいないし、五人姉妹は映画の撮影でしょ。四姉妹ならいるかな?〉とテツェオ・シスターズを紹介してもらったんです(笑)。それぐらい、彼女たちみたいな形態で伝統的な民族音楽をポップスとして表現しようというグループは多いんですよ」

アヌシュカ「ほかにもアンガミ・シスターズという人たちがいますね。あと、(インド東部の)マニプルで活動しているリューベン・マシャンバみたいな音楽家もいます。彼はボブ・ディラン・スタイルでナガの歌を歌ってるんですよ」

リューベン・マシャンバのパフォーマンス映像
 

――そういったナガのアーティストたちはどのような意識を持って伝統と向かい合ってるんでしょうか?

アヌシュカ「伝統への意識自体は非常に強いと思いますよ。彼らは伝統を利用しながら、現代のライフ・スタイルに合ったものを作り出そうとしているのだと思います」

イーシュワル「彼らのようなやり方で部族としてのアイデンティティーを打ち出そうとするとき、キリスト教徒である自分とぶつかり合う部分があるんですね。そこに葛藤があるようです。ナガの歌でも教会から歌うことを禁止されているものもあるので、歌詞を変えたりといろいろな苦労があるんです」

――教会から禁止されている歌とは?

イーシュワル「キリスト教とは異なる民間宗教色の濃いものですね。例えば儀式に関する歌。ナガには森から岩を切り出し、村のなかに供えるという儀式があったんですが、〈岩を供える〉という表現が教会から禁止され、違う言い回しで歌われるということがあったようです」

――独立運動があったり異なる民族的風習が受け継がれていたりと、ナガランドはインドのなかでも特殊な地域ですよね。インド本土の人たちにとってナガランドはどのような場所なのでしょうか。

アヌシュカ「多くのインド人にとってナガランドは〈軍事的な紛争のある面倒な場所〉というイメージだと思いますが、それはメディアによって作り出されたものでもあるんですよ。その一方で、豊かな民族文化が育まれている場所というイメージもあると思います。

ただ、それも首刈り族のようなステレオタイプ的なイメージを含むものでもあって、ナガランドの人たちに対するインド本土からの人種差別にも繋がってるんです。インド北部では特にそうした差別は根強く残っているんですね」

――お2人もナガランドで撮影を繰り返すことでイメージが変化してきた?

アヌシュカ「そうですね。ナガに対して自分たちが抱えてきたステレオタイプからどれだけ逸脱できたか、確信は持てませんが。村の人たちと会話を続けながら、彼らの生活にどのような視線を向けることができるのか、どのような距離感でカメラを向けるべきなのか、考えながら撮影を続けてきました。村民のなかには〈撮影するんだったら伝統衣装を着ようか?〉と言う人もいたんですが、私たちはそれだけは絶対にやりたくなかった。彼らが普段送っている日常をそのまま撮影したかったんです」

 

アジアの秘境を映し出した本作から見えてくるのは、かつての私たちの姿だ。ここには遥か昔に私たちが手放してしまった、素晴らしい歌の風習が記録されている。

それも博物館のガラスケースのなかで厳重に保管されている〈歴史資料としての歌〉ではなく、現代の生活のなかで歌い継がれている〈生きた歌〉だ。本作「あまねき旋律(しらべ)」に目と耳を傾けながら、人々の声と山村のサウンドスケープが織りなす複雑なハーモニーを堪能していただきたい。

 


Information
「あまねき旋律(しらべ)」

監督:アヌシュカ・ミーナークシ、イーシュワル・シュリクマール
製作:ウ・ラ・ミ・ル プロジェクト
配給:ノンデライコ
2017年/インド/83分/チョークリ語/16:9/カラー
山形国際ドキュメンタリー映画祭(日本)、アジア千波万波部門・奨励賞、日本映画監督協会賞
2018年10月6日(土)よりポレポレ東中野でロードショー。以降全国順次
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