ライター/編集者の大石始をナヴィゲーターに迎え、昨今、世界の音楽シーンで存在感を放つアジアの音楽シーンを、当事者へのインタヴューでレポートする本連載〈アジアNOW! ~アジア音楽最前線~〉。第8回の主役は、カンボジアのヒップホップ・レーベルであるクラップヤハンズです。今回の取材にも立ち合ってくれたstillichimiyaのYOUNG-Gが、2016年に掲載した回にて注目しているアジアン・ヒップホップの筆頭だといち早く語っていたクルーに直撃! *Mikiki編集部
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まさに奇跡の来日である。カンボジアのラップ・レーベル、クラップヤハンズ(KlapYaHandz)一行が、カンボジア・フェスティバルの招致によって日本初上陸。5月に東京・渋谷区で開催されたカンボジア・フェスに出演したほか、新宿のクラブ・BE-WAVEで行われたSOI48のパーティーにも登場し、満場のオーディエンスを熱狂させた。
70年代、カンボジアはアメリカ軍と南ベトナム軍の侵攻によって混乱に陥り、ポル・ポト率いるクメール・ルージュ政権下では多くの知識人や音楽関係者、さらには一般市民が虐殺された。60年代のカンボジアではシン・シサモットやロ・セレイソティアなど数多くの名歌手・音楽家たちが活躍したが、彼らもクメール・ルージュによって虐殺されたのではないかと言われている。
クラップヤハンズはそうしたクメール・ルージュ以前のカンボジア歌謡黄金時代の楽曲をサンプリング/カヴァーし、世界的な注目を集めているレーベル。主宰者であるヴィサル・ソック(Visal Sok)は、昨年の東京国際映画祭でも上映された映画「音楽とともに生きて(In The Life Of Music)」(2018年)などを手がけた映画監督でもある。クラップヤハンズは彼のヴィジョンのもと、カンボジアの〈いまと昔〉を繋ぎ合わせるべく奮闘している。
今回はヴィサル・ソックをはじめ、レーベルの看板シンガーであるスレイリアック(Sreyleak)、さらにはユット(Yut)、ヴィトゥ(Vitou)、リージー(Reezy)、ウティエ(Vuthea)という若手ラッパー4人、DJチー(Chee)、ケニー・チェイス(Kenny Chase)という顔ぶれで来日。また、今回はstillichimiyaのYOUNG-GとMMM、SOI48を中心とするチーム、OMKがサポート。そのYOUNG-Gにも同席してもらう形で行った、日本初上陸、クラップヤハンズの貴重なインタヴューをお届けしよう。
多くのカンボジア人は何も手にすることなく故郷を離れた。だけど、歌は残った
――ヴィサルさんは何年のお生まれですか?
ヴィサル・ソック「71年、(カンボジアの首都である)プノンペン生まれだよ」
――プノンペン陥落は75年4月17日ですから、プノンペンを離れたのは4歳のとき?
ヴィサル「そうだね。まだ子供だったから、そのときのことはあまり覚えていない。プノンペンからタイに逃れて、1年ほど暮らしたあとにフランスへ移ったんだ。それが76年で、90年まではフランス国内を転々としていた。90年から2年間はカンボジア人のコミュニティーがあったアメリカのロードアイランドに住み、一度フランスに戻ってから、93年からカンボジアで住みはじめた」
――帰国する前からカンボジアの音楽には接していたんですか?
ヴィサル「うん、聴いていたよ。両親が家や車のなかでよくカンボジアの音楽をかけてたから。シン・シサモット、ロ・セレイソティア、パン・ロンとか内戦が起きる前のものだね。当時は好きという感情もなくて、ただ耳にしていただけ。あくまでも生活のなかで鳴っていたというだけで、特別な感覚もなかった」
――じゃあ、関心を持つようになったのは?
ヴィサル「90年にアメリカに渡ってからだね。僕はクメール・ルージュの時代を体験する前にカンボジアを出たわけだけど、アメリカではクメール・ルージュ時代を生き抜いた親戚とも一緒に住んでいたんだ。そのこともあって、カンボジアの文化に関心を持つようになった。
シン・シサモットやロ・セレイソティアは親世代のスター。少なくとも僕ら世代の歌手ではないね。両親にとっては国が平和だった時代を思い出させてくれるみたいで、やっぱり特別な存在みたい。だから、一種のノスタルジーだよね。国を出た多くのカンボジア人は何も手にすることなく故郷を離れたわけだけど、歌は残った。宝物みたいな感覚なんだと思う」
――ヒップホップと出会ったのは15歳のころだそうですね。
ヴィサル「そうだね。当時住んでいたパリではブレイクダンスが流行っていたんだ。僕は好きなだけで踊ってはいなかったんだけど、そのかわりグラフィティをやっていた。当時一緒に動いていたのはカンボジア人じゃなくて、アフリカ系の連中。ヒップホップは好きだったけど、当時の僕は言葉を話すことが苦手で、ラップをやろうとは思わなかった。でも、絵を描くのは得意だったからグラフィティにのめり込んだんだ」
――ヴィサルさんがカンボジアに戻ったのは93年ですよね。帰国してみてどう感じました?
ヴィサル「僕は自分の人生を切り開くためにカンボジアに戻ったんだ。当時の僕は警備会社のアルバイトと建設業の労働者として生活していたんだけど、心のなかでは〈自分はアーティストなんだ〉という思いがあった。実際の生活とのギャップに葛藤があって、まずは自分の国に帰らなきゃ何も切り開けないような感覚があったんだよね。93年まではカンボジアに帰るつもりはまったくなかったんだけど、一度帰ってみたらすぐに自分の母国だと感じた。気候や風土がすごくしっくりくるんだよね。もうフランスには帰れないなと思った」
――クラップヤハンズが始まったのは?
ヴィサル「2004年だね。カンボジアに戻ってみたものの、93年から2000年までは音楽活動ができなかったんだ。軍隊に入り、そのあとフランス語の教師をやったりしててね。2000年ごろから自宅で少しずつ音楽制作を始め、2001年にクメール・ヒップホップのアルバムを2枚出した。そこから仲間が増えて、アピン(Aping)というラッパーとクラップヤハンズを始めることになったんだ」
――2001年以前、カンボジアでヒップホップは聴かれていたんでしょうか?
ヴィサル「プノンペン・バッドボーイズやプノンペン・プレイヤーズといったラップ・グループは当時から活動していたね。彼らのことは僕もよく知ってるし、自分のアルバムにも参加してもらったんだけど、彼らがやっていたのはアメリカのスタイルのコピーだった。スヌープ(・ドッグ)や(ドクター・)ドレーのモノマネというかね。僕はそういうものじゃなくて、シン・シサモットやセレイソティアをサンプリングしながらオリジナルなものを作りたかったんだ」
――ただ、当時の若者たちにとってシン・シサモットなどは古臭いものと捉えられていたのでは?
ヴィサル「その通りだよ。そこはいまも変わらないけどね。ただ、アメリカのヒップホップにしたって以前は古臭いものと捉えられていたようなファンクやソウルのレコードをサンプリングし、新しいものを生み出していたわけで、その点では自分がやってることも変わらないとは思ってるんだ。カンボジアの若者たちにシン・シサモットやセレイソティアのことを知ってほしくてサンプリングしたところもあるんだけど、最初はまったく興味を持ってもらえなかった。みんなアメリカ文化に対する憧れがすごく強いからね」
今風の歌は自分に合わない
――ヴィサルさん以外のみなさんにも話を聞いてみましょうか。みなさん何年生まれですか?
DJチー「95年生まれです」
ユット「僕は93年生まれです」
ヴィトゥ「96年です」
リージー「93年生まれです」
――みなさん90年代生まれなんですね。では、ヒップホップとはどのように出会ったのでしょうか?
DJチー「僕の両親とヴィサルさんの両親が友人なんですよ。ウチは貧しくて、子供のころからヴィサルさんの家によく預けられてたんです。それで彼がかけてたヒップホップと自然と出会ったんですね。最初はあまりよくわからなかったけど、ヴィサルさんが作業をしているスタジオにお弁当を持っていくという役割をやっていたので、自然と関心を持つようになりました」
――DJはどうやって始めたんですか?
DJチー「見様見真似ですね。ヴィサルさんは映画の仕事で忙しくなってきて、スタジオを管理する人がいなくなってしまったんですよ。僕は身内みたいなものなので、少しずつ手伝うようになったんです。スタジオにDJ用の機材があったので、ヴィサルさんに少し教えてもらった後はYouTubeでやり方を覚えました」
ヴィサル「ここ3年ぐらいにリリースされたクラップヤハンズの50パーセントぐらいはチーがプロデュースしたものなんだ。スタジオの管理者であり、クラップヤハンズのヘッド・プロデューサーだね」
――チーさんはシン・シサモットなど昔の歌手のことはどう見てるんですか?
DJチー「自分の世代の音楽ではないけど、そのときそのときのスタイルがありますからね。毎日スタジオで聴いているし、そういう意味では自分にとって生活の一部みたいなもの。もちろんUSの現行のものも聴きます。まあ、USの流行りのものは僕だけじゃなく、カンボジアの同世代の連中もYouTubeなんかで普通に聴いてますからね」
――では、ユットさんたちがラップを始めた経緯は?
ユット「2005年ぐらいからはヒップホップを聴くようになって、2007年にはラップを始めてました。14歳ぐらいかな。アピンさんの曲を聴いて、自分でもやりたくなったんです。僕は地方出身なんですけど、プノンペンに出てきてアピンさんにラップのやり方を教えてもらっていました。僕のラップの先生みたいなものなんです」
リージー「僕は小さいころからラップが好きで、クラップヤハンズのファンだったんですよ。高校生ぐらいから自分でもラップを始めました。クラブではできないので、最初は自分の部屋でやってましたね。高校3年生のときには自分でリリックを書きはじめていました」
ヴィトゥ「僕の場合は2016年ぐらいからリリックを書いて、自分のFacebookにアップしてたんですよ。それでいろんな人たちと出会って、実際にラップをするようになりました」
――カンボジア・フェスのときにブースの前でフリースタイルをやってましたよね。ああいうことって普段からやってるんですか?
ユット「あそこまでフリーなのはクラブじゃやらないけど、友達同士で集まったときに遊びでやることはありますね」
――スレイリアックさんが歌を始めたのは?
スレイリアック「2003年ぐらいからセレイソティアやパン・ロンの歌を歌いはじめました。今風の歌はどうしても自分に合わないんですよ」
――では、クラップヤハンズと一緒にやるようになったきっかけは?
スレイリアック「カンボジアにはライヴをやるビアガーデンがあるんですけど、私はそこで昔の歌を歌ってたんです。クラップヤハンズはちょうどそのころ、いろんなビアガーデンを回って歌い手を探していたそうで、私に声をかけてきたんです。テストを受けにこないか、と。それで2014年から一緒にやりはじめました」
――〈今風の歌はどうしても自分に合わない〉とおっしゃいましたが、クラップヤハンズとのコラボレーションはいかがですか?
スレイリアック「クラップヤハンズではヒップホップをやってるという意識はないんです。自分が歌える曲をヴィサルたちがアレンジしてくれるので、すごく自然にやれています。彼らみたいなラッパーとやるのは初めての体験だったし、最初は少し戸惑ったけど、無理なくやれるようになりました。ビアガーデンのときは有名な歌を歌ってるだけだったけど、いまは自分の表現をやれますから」
――プノンペンにおいてクラップヤハンズのホームとなるクラブはどこなんでしょうか?
ヴィサル「2018年からは毎月どこかのクラブやバーでライヴをやってるんだよ。SOUNDやEPIC、DOSといったクラブ、SKYBARといったバーでよくやってるね。来ているのは酒を呑みに来た客がメインで、自分たちの音楽目当てでくる人たちというのはまだまだ少ないかな」
――クラップヤハンズの活動の収益の軸になっているのは?
ヴィサル「活動の中心としてはYouTubeにアップしているMVだね。ただ、こちらの収益は微々たるもの。プノンペンの各クラブでのライヴやイヴェントに関してはバドワイザーがスポンサーになってくれていて、それがかなり大きいね。CDはあくまでもプロモーションのためのもので、販売を前提にしていないんだ」
――では、カンボジアでヒップホップで生活していくのは、現状ではまだまだ大変?
ヴィサル「うん、その通りだね。まだまだ厳しいと思う。今回来日したラッパーたちもクラップヤハンズの活動だけで生活しているわけじゃなくて、他の仕事もしているしね。マーケティングやセールスについては自分も専門家ではないので、クラップヤハンズの弱いところでもあったと思う。今後は収益をどう上げていくかについても力を入れていこうと思っているんだ」
大陸側のアジアと日本の違い
――最後に、今回の来日公演を実現させたYOUNG-Gさんにも話を訊いてみましょうか。彼らと一緒に時間を過ごして印象深かったのは?
YOUNG-G(stillichimiya)「とにかくみんな日本を楽しんでいる様子で、いろんなことに興味を示してるんですよね。ヴィトゥはカンボジアでYouTuberとしても活動しているので、常にビデオを回しては時間があれば編集していますし、DJチーはボブ・マーリーのレコードとレコード・プレーヤーを買ったみたいで。カンボジアでかつてレコードが破壊された歴史が頭をよぎったのと同時に、彼らのようなデジタル音源が主流の若い世代でも、レコードに対する興味があるんですよね。
あと、クラップヤハンズは世界標準での最新のヒップホップやトラップをやってるけど、それと同時に、昔のクメール歌謡やそれをサンプリングして作っている新しいクメール音楽との間に隔たりがないとも感じました。今回来日した若い世代のラッパーたちも同じで」
――なるほど。
YOUNG-G「それはディレクターでありプロデューサーのヴィサルの影響によるところはもちろんあると思うけど、彼らだけでなく、タイのラッパーたちも同じように自分たちの音楽をヒップホップに盛り込んでいこうという姿勢があるんですよね。そういう部分でも大陸側のアジアと日本の違いについて考えさせられました」
――YOUNG-Gさんは現地に行って彼らと直接交流し、今回の来日を実現させたわけで、感慨もひとしおなんじゃないですか。
YOUNG-G「そうですね。いままでクラップヤハンズの音源をかけたり、さまざまなメディアで紹介してきたので。世間では〈アジアのヒップホップが盛り上がっている〉と言われてますが、まだまだ本当の意味で伝わっている部分は少ない思うんですよ。彼らやタイのJUUさんのようにオリジナリティー溢れる音楽を今後も紹介していきたいと強く思っています」