マニア垂涎、ブラジルの至宝と称えられたアーティストの精緻な伝記が日本語版で刊行
緻密かつ膨大な取材と調査に基づく詳細な伝記により、70年代以降ワールドとジャズ、双方のファンを魅了してきた高名なブラジル人アーティストの辿った軌跡が、つまびらかにされる。2006年刊、原題「Travessia – A Vida De Milton Nascimento」。著者は新進気鋭のマリア・ドロレス。ミルトン作品の原風景にして、彼の音楽人生を育んだ内陸部ミナスジェライス州トレスポンタスの地をよく知る同郷人ならではの細やかな視点が、従来のバイオグラフィーや記事、インタヴューでは伺い知れなかった時代と事象をつぶさに伝えてくれる。シャイで寡黙なシンガー・ソングライターの多彩な交流劇の陰に、どんな感情と運命がうごめいていたのか。ショッキングな局面を含め、ファンにはどれも価値ある記述ばかりだ。
MARIA DOLORES, 荒井めぐみ, ケペル木村 『ミルトン・ナシメント“ブラジルの声”の航海 (トラヴェシア)』 DU BOOKS(2019)
トレスポンタスに始まりトレスポンタスに終わるこの伝記は、一種の町に対するオマージュなのだろう。世代的に若い著者ゆえ、私論を挟むのは自身が肌で感じた時代のみに限定され、その点でも伝記として信頼に足る。折々の心象を、ミルトン作品の歌詞に絶妙なタイミングでシンクロさせているところは、いかにもブラジル人らしい手法だ。
ただし、ミルトンの全アルバムやレパートリー、作者クレジットと共演者を隅々まで眺めずにおれぬマニアには難なく乗り越えられたとしても、キーワードとなる人名の羅列と錯綜した関係図が、一般読者にとっては高いハードルに違いあるまい。ま、執着とはそんなもの……簡略化しては意味をなさないし、辛抱してくれたまえ。
自称・冷静なマニア(笑)がもっとも感銘を受けたのは、ミルトンが作曲を完成させた時点で、直感的に〈誰に歌詞を頼めばいいか〉確信し、過たず(ときに半ば強引に)作詞を委嘱していたという逸話だった。当事者への配慮からか、敢えて取り上げられなかった事件もあるが、そこは後世の分析に委ねるとしよう。オープンマインドだが不寛容、頑迷かつデリケートなジャンルを超越した天才イノベーターの、壮大な航海のドラマが描かれる。