日本映画史に一時代を築いたATG(日本アート・シアター・ギルド)からの嬉しい復刻が2本同時発売!
小予算の前衛ゲリラ集団として日本映画史に一時代を築いたATG(日本アート・シアター・ギルド)の作品を復刻する〈ATGライブラリー〉シリーズ。今回初ブルーレイ化されたのは、増村保造監督の晩年作「曽根崎心中」(公開は78年)と、カメラマン浅井慎平の初監督作品「キッドナップ・ブルース」(同82年)の2本。
「曽根崎心中」は言うまでもなく近松門左衛門の人形浄瑠璃が原作で、主演は梶芽衣子と宇崎竜童。公開当時、キネマ旬報ベストテン日本映画第2位に輝いた他、梶は内外で主演女優賞も獲得した。
時は元禄16年(1703年)。宇崎演じる大阪の若き商人(醤油屋の手代)徳兵衛と梶が扮する女郎のお初が様々な不運や悪意や因習に翻弄されながら、悲恋を成就せんと遂に壮絶な心中に至る……。当時、大阪・西成郡曾根崎村の露天神の森で実際に起きた情死事件を題材にしたこの物語は、構造的にはごくシンプルなメロドラマである。そしてその構造のシンプルさは、増村ならではの屈折した灼熱のリアリズムによって圧倒的強度を湛えた映像へと純化されたのだった。
誰もがまず驚かされる、あるいは違和感を持つのが、登場人物たちの台詞回しの過剰なまでの演劇性、大仰さだ。一言一句はっきりと、タメをもって発せられる様は、まさに浄瑠璃や歌舞伎。特に主人公2人の台詞はそれが際立っているため、宇崎のたどたどしさ、生硬さにはいきなりズッコケてしまうわけだが、ドラマが白熱してゆくに従い、その愚直なまでの善良さがいきいきと輝き、劇全体のリアリティを加速させてゆく。本作の後、NHKドラマ「阿修羅のごとく」(79年)や映画「TATTOO〈刺青〉あり」(82年)などで役者としての才能を開花させていった宇崎は、これが本格的な役者デビュー作にして初主演作だったが、ここで習得したものはかなり大きかったはずだ。ちなみに宇崎は本作の直前に出た梶芽衣子のアルバム『あかね雲』で“袋小路三番町”なる曲を書き下ろしており、増村に宇崎を推薦したのも梶だった。
その梶の演技は、もう壮絶のひとこと。70年代前半に「女囚さそり」や「修羅雪姫」などでスターの座を築いた梶は、そこで固定化されたイメージを、薄幸の女郎の捨て身の演技によって見事に更新してくれる。松の木に身体をくくりつけ血まみれで息絶えてゆく姿こそは、梶の女優としてのキャリアの最高到達点ではなかろうか。苦痛に歪みながらも微笑みを湛えた美しい顔はまさに菩薩のごとし。
あと、徳兵衛を破滅に追い込む悪の権化、油屋九平次を演じる橋本功を筆頭に、守銭奴の継母役の左幸子、真面目だが偏屈な伯父九兵衛役の井川比佐志など、キャラが立ちまくった脇役陣による彫りの深い名演も見事。本作を昔映画館で観た時は大仰さに笑ってしまった私だが、今回改めて観て、本場のシェイクスピア劇にも劣らぬ傑作かも……と感銘を受けた次第。
一方、既に大御所写真家として名を馳せていた浅井慎平が脚本、監督、撮影のすべてを担当し、主演にタモリ(クレジットはタモリ一義)を据えた「キッドナップ・ブルース(誘拐憂歌)」は、ATGの方向転換を実感させる、なんともつかみどころのない80年代型新感覚派。失業中のジャズ・トランペット奏者(タモリ)が、近所の顔見知りの鍵っ子少女を勝手に自転車に乗せてあちこち旅をする一種のロード・ムーヴィだが、けっして「都会のアリス」などではない。〈流れる日々を自転車に乗せて、男と少女は日常を漂っていく。だが、何かが見えない〉なる当時の宣伝コピーどおり、その旅には目的も意味もドラマもない。日本各地の風景の中を二人がフワフワと漂ってゆくだけだ。浅井のカメラワークも、映像的というよりは絵葉書を繋ぎ合わせたようなポエム風。山下洋輔、内藤陳、伊丹十三、吉行和子、根津甚八、小松方正、更に淀川長治や岡本喜八までチョイ役で登場するなど、ただの内輪のお遊びかよと謗られかねない。だが一方で、偉大なるヒマつぶし番組「タモリ倶楽部」を今なお嬉々として続けるタモリ、〈やる気のある者は去れ!〉を信条とするタモリをこれほど見事に表現した映像もないのではないかとも思う。作品全体を覆う深い諦観は、タモリの視線そのものだ。少女と素っ裸で風呂につかるシーン(今だったら絶対アウト)も、いいとも!