コラム

追悼 和田誠――濱田髙志が綴った、多才なイラストレーターとの交歓の思い出

Exotic Grammar Vol.66-1

和田さんお気に入りのポートレイト。
これ以降、このポーズで撮影されるようになった。
撮影:吉田宏子

追悼 和田誠さんと三木鶏郎

 去る10月7日、和田誠さんが亡くなられた。享年83。訃報から2ヶ月を経たが、いまだに実感が湧かない。事務所に電話をかければ、今にも受話器から和田さんの声が聞こえてきそうだ。

 私の仕事部屋には、例年通り和田さんのカレンダーが飾られ、街に出れば、コンビニや駅の売店で『週刊文春』の表紙が目に入る。新刊書店や古書店に足を運べば、かなりの頻度で和田さんが装幀を手掛けた単行本や文庫本が、CDショップや中古盤店では、和田さんの絵をあしらったCDやレコードのジャケットが目に留まり、週末の朝、起き抜けにテレビを点けると、液晶画面には、ドリス・デイが歌う《Tea for Two》に導かれて、和田さんが描いた『サワコの朝』のタイトルバックが映し出される。ドリス・デイは、和田さんが最も好きな女性シンガーだ。私は煙草を吸わないが、喫煙者なら折にふれて自販機で「ハイライト」のパッケージを目にするのだろう。かように、和田さんの作品は日常に溶け込み、誰もがそれを当たり前のように享受してきた。押し付けがましくなく、目にしただけで豊かな気持ちになるのが特長で、袋文字で書かれた題字や絵に添えられた手書きのキャプション、俗にいう“和田文字”は、人懐っこく、眺めているだけで心が躍る。名人芸とも言える似顔絵に至っては、誰もが善人に見えるほど。それだけに、似顔絵を描かれた人に対しては、面識がなくとも妙な親近感を抱いてしまう。多芸多才ゆえにイラストレーターの枠に収まらず、デザイナー、映画監督、エッセイストとして、様々な分野で作品を発表された和田さんだが、ここ2年ほどは、筆を持つ手を休めて自宅で映画観賞に興じていると聞いていた。よって、突然の訃報は青天の霹靂というほかない。

 私が和田さんと知り合ったのは2009年秋のこと。宇野亞喜良さんからの紹介だった。無論、それ以前から読者として和田さんの作品にふれてきたし、実のところ、過去に何度か和田さんにご挨拶する機会があった。しかし、一向に覚えてもらえず、その後も会うたび「はじめまして」の挨拶を交わしてきたのだ。そんなわけで、和田さんと仕事をご一緒する機会が訪れるとは夢にも思わなかった。ところが、宇野さんは私を和田さんに引き合わせるなり「こちら、濱田さん。これまで僕の本を何冊も作ってくれたんだけど、今度、和田くんの本を作りたいんだって」と切り出した。予想外の発言に驚いていると、和田さんは「じゃあ、今度機会があったら、ぜひともよろしく」と一言。社交辞令と思ったのも束の間、翌日、和田さんから電話があり、「昨日の話だけど、いつ打ち合わせしようか」。何が和田さんの気を引いたのか判らないが、以来、様々な企画をご一緒することになった。具体的には、和田さんのポスターや装幀、レコードジャケットを集めた7冊の作品集を企画・編集し、手塚漫画の装幀を1冊、12枚のCDジャケットに、テレビ番組のタイトルバックと企業のロゴマークをそれぞれ2点、レコードバッグやピンバッヂなどのグッズを5種類、アニメーションやジャズ関連のトーク・イヴェントをきっかり10回行い、私が企画・構成を務めた2つのラジオ特番では、阿川佐和子さんと共にメイン・パーソナリティを務めていただいた。ほかにも、ラジオ番組へのゲスト出演や、ご子息の唱さんとの親子対談など、挙げればきりがない。とにかく、こちらが投げた球をことごとく打ち返してもらったという印象である。複数の仕事を並行してお願いすることが多かったため、事務所にお邪魔すると、つい長居してしまう。といっても、仕事の話はものの数分で、滞在時間のほとんどが雑談だった。話題に応じて、貴重なレコードや画集を取り出し、時に音や映像を再生しながら、和田さんしか知り得ない逸話を聞かせていただいた。和田さんはクリエイターであると同時にコレクターでもあって、アーカイブの重要性を熟知されていた。そのため仕事場では、書籍は勿論のこと、映画のポスターやフィルム、レコードが整理整頓され、いつでも取り出せる状態になっていたのだ。また、途轍もない記憶力の持ち主で、聞けば何でも答えてくれる。しかし、決して自ら知識をひけらかすことはなく、あくまでも、聞かれれば答えるというスタンスだ。そんななか、たびたび話題にのぼったのが、我が国のCM音楽の開祖・三木鶏郎さんのことだった。和田さんは小学生の頃、鶏郎さんが出演していたラジオ番組『日曜娯楽版』(47年)の愛聴者で、なかでも番組中で流れた日本語詞による《イースター・パレード》は忘れられない一曲だと言って、その場で歌って聞かせてくれた。そして、ほぼ同時期にAFRS(the Armed Forces Radio Service=進駐軍放送)を聴くようになり、そこでスタンダードソングの魅力に目覚めたのだという。鶏郎さんは、映画音楽や日劇のレビューなどの舞台音楽も担当していたため、和田さんは、幼少時に伯父(山本紫朗)に連れられて、劇場でも鶏郎作品にふれている。和田さんの述懐によれば「東京宝塚劇場が、戦後すぐ進駐軍に接収されて、アーニー・パイル劇場と改称され、やがてそれが返還されて東京宝塚劇場に戻った時の最初の演目で、東宝ミュージカルというのをやったんです。それが鶏郎さんの『泣きべそ天女』(56年)っていう作品で、主役は雪村いづみでした。ぼくが舞台でミュージカルを観たのはそれが初めて」(CD「三木鶏郎ソングブック」ライナーノーツより)。鶏郎さんへの憧れは強く、1971年には、和田さんの企画・構成による『三木鶏郎ソングブック』が制作された。これは鶏郎さんの楽曲を現代に甦らせるのが目的で、編曲・八木正生、歌・由紀さおり、デューク・エイセスといった布陣による録音である。アルバムは、作者の鶏郎さんが絶賛する仕上がりとなり、後年、和田さんは、鶏郎さんの仕事場に招かれてご本人と対面、いたく感激したという。奇しくも和田さんが亡くなった10月7日は、鶏郎さんの命日でもある。

2013年1月、三木鶏郎企画研究所再訪時、和田さん作画の鶏郎さんの肖像画と共に。
写真提供:三木鶏郎企画研究所

 和田さんにとって、「イラストレーション」、「映画/アニメーション」と並んで大事な要素が「音楽」だった。何しろ自ら作曲を手がけた作品集もあるほどだ。和田さんには、音楽にまつわる逸話を集めた著書や共著が複数あるが、なかでも和田さんならではのユニークな視点で書かれた『いつか聴いた歌』(77年)は、スタンダードソングに焦点をあてた名著である。2013年、私がその増補改訂版の出版と関連CDの選曲・監修を提案すると、和田さんは二つ返事で引き受けて下さり、それは佐山雅弘さん、島健・島田歌穂ご夫妻、阿川佐和子さんらを巻き込んで、トークライヴやラジオ番組の企画へと発展した。和田さんいわく『いつか聴いた歌』は、ライフワークのひとつだったそうだ。CDは全5集のうち3集が出たところで中絶したが、残る2集分についても、和田さんは選曲に着手していた。いつか形に出来ればと思う。

 私が和田さんと最後に会ったのは、昨年3月15日。それを遡ること数週間前、突然、映画評論家の山田宏一さんに会いたいと連絡を受け、再会の場をセッティングしたのだ。私はお二人と交流があったため、それぞれの近況を知らせる伝書鳩的な役回りだった。当日、事務所スタッフと共に現れた和田さんは、山田さんの姿を認めるなり、どこか照れ臭そうに、「やあ、久しぶり」と顔をほころばせ、対する山田さんも上機嫌で和田さんを席へと促した。3時間ほど昔話や映画談義に花を咲かせたあと、別れ際に和田さんが手を差し出し、山田さんと固い握手を交わした姿が忘れられない。和田さんを見送りながら、山田さんが、「長い付き合いだけど、和田さんと握手したのはこれが初めてですよ」と呟いた。その時、貴重な瞬間に立ち会っていると感じながらも、私は、まさかそれが和田さんとの最後の時間になるとは思いもしなかった。

 


和田誠(Makoto Wada) 【1936 – 2019】
1936年生まれ。イラストレーター、グラフィックデザイナー、映画監督。59年多摩美術大学卒業、ライトパブリシティに入社。68年からフリー。77年より「週刊文春」の表紙を担当して現在に至る。74年、講談社出版文化賞ブックデザイン部門受賞。84年、映画『麻雀放浪記』を初監督。現在まで4本の監督作品がある。89年ブルーリボン賞、94年菊池寛賞、97年毎日デザイン賞、15年日本漫画家協会賞特別賞ほか、受賞多数。出版した書籍は200冊を超える。10月7日、肺炎のため死去。享年83。

 


寄稿者プロフィール
濱田髙志(Takayuki Hamada)

1968年生まれ。アンソロジスト。ミシェル・ルグラン、ロジャー・ニコルスをはじめとする作曲家らと親交が深く、とりわけ今年亡くなったミシェル・ルグランとは、公私に渡る交流があった。国内外で企画・監修したCDは530タイトルを数え、ほかに、画集の企画・編集、テレビ、ラジオ番組の企画・監修・構成・出演も。ウェブサイト「週刊てりとりぃ」編集人も務めている。
http://weeklyterritory.blogspot.com(毎週木曜日深夜更新)

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