その黎明期からIDM/エレクトロニカを体現する存在であり続けながら、2010年代には『Oversteps』や『Exai』などでリリースを活発化させ、勢いを衰えるどころか増幅させているオウテカが、早くも20年代最初のアルバムを完成。ここのところ5枚組の『elseq 1-5』や8時間を超える『NTS Sessions.』などヴォリューム満点の作品が続いてはいたが、1枚組の至極シンプルな構成でも彼ららしさは変わらず。不変にして普遍。
CD 8枚組、LP 12枚組、480分の大作『NTS Sessions 1–4』(2018年)から2年半。ついにオウテカの新作がここに届けられた。
〈今回のオウテカはポップ〉と聞き及んでいたとおり、際限なく長大化していた近作と比べて、65分という聴きやすいアルバム・サイズに収まっている。一曲の長さも、(あまり使いたくない言葉ではあるが)〈常識的〉なものだ。『Oversteps』(2010年)以来10年ぶりの(これもまた、あまり使いたくない言葉ではあるが)〈普通〉のアルバム、かもしれない。
だからといって、なにかクリエイティヴィティーにおける妥協があるとか、そういったことではもちろんない。そこはストイックな彼らのこと、『SIGN』はむしろそれゆえに濃密で、オウテカのコア、彼らの真の髄のみが純化、精練され、結晶化している印象を受ける。
だからこそ、ファンには音そのものへの耽溺と身を委ねられるような安心感を、本作でオウテカを初めて聴く者には驚きを与えることだろう。ここには、相変わらずクラフトワークから受け継いだものがあるし、ヒップホップやファンク、アンビエントの原風景への憧憬を感じられる。その一方で、たとえば10年前の『Oversteps』などに比べると、あきらかに更新された、新鮮な音響と音像がある(特に、電子音の響きそのものについては、目を見張るものがある)。
ショーン・ブースとロバート・ブラウンへのインタビューを読むと、まず本作の制作の前提として、2年ほど前にソフィー(SOPHIE)から楽曲のリミックスを依頼されたことがあるという。しかし、ソフィーから送られてきたステム・データを彼らのシステムでは再生することができず、ブースは苦肉の策で「Abletonをハッキング」し、6か月(!)をかけてモジュールをそこに移植した。それによって、「まったく新しいセットアップ」をたまたま手にしたオウテカは、それを大部分で用いて『SIGN』を制作することになる(しかし、当のリミックスは頓挫してしまった(笑))。
『SIGN』にあるフレッシュさと〈らしさ〉とは、そのためかもしれない。完全なる新境地を切り拓こうというのではなく、これまで積み重ねてきたものの延長線上にありつつ、そこに偶然の出会いが飛び込んできたことで、その道筋はちょっと路線変更を強いられることになった――『SIGN』はおそらく、オウテカにとってそんなアルバムだ(じっさいブースは、長年使っているプログラミング言語であるMax/MSPを捨て去るときこそ、新境地に入るときだろう、と言っている)。
すべて大文字で表されたアルバム・タイトルについては、なにかの頭文字だが、単に〈sign(サイン)〉と呼んでくれればいいよ、と2人は悪戯っぽく語る。つまり、記号(sign)の恣意性に遊びや豊かさを見出しているのだ。音というものも記号に似て、それが人間(あるいはそのほかの生物)の聴覚を通じてどう解釈されうるかはさまざまである。オウテカとは、発せられた音とその聴き手の解釈とのあいだにある無限の可能性を、楽しみながら探究してきた2人だ、という見方もできるかもしれない。
30年以上にわたって電子音楽を作りつづけている2人が、14作めのスタジオ・アルバムにして、とても彼ららしい作品を作り上げた――『Incunabula』(93年)からオウテカのディスコグラフィーを振り返ってみて得たのは、そんな感想だ。唯一無二、固有の電子音の迷宮を築き上げてきたオウテカの入り口にも最適な一作だと思う。
しかし、オウテカの音の迷宮とは、一度迷い込んでしまえば脱出は不可能であり、しかも常に拡張と拡大を続けている、とても危険なものである。