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次はオリジナルを自分たちで作りたかった

――さて、フード・ブレインについてですが、〈次の音楽〉とは具体的に何だったんでしょう。

「日本だとほとんどまだオリジナル(曲)がなかったんだ。パワーハウスは英米の音楽を紹介していて、グループサウンズのバンドも少しはいたけど、本格的に自分の体に仕入れて、それを発表したのはパワーハウスしかいなかった。次はそれを自分たちで作りたかったんだ」

――では、折田育造(ポリドール、ワーナーのディレクター。2021年9月に逝去)さんとの出会いは?

「折田さんは俺を探して来て、会った。パンタ(頭脳警察)が俺の電話番号を教えたそうだ。69年の終わり頃だったと思う」

――フード・ブレインの後のゾディアック(陳信輝、柳譲治、加部正義、野木信一、ジョン山崎)というのは?

「それは俺のソロアルバム(71年作『SHINKI CHEN』)を作るんで加部君たちと作ったバンドだったかな、覚えてないな」

陳信輝の71年作『SHINKI CHEN』収録曲“Gloomy Reflections”

――李さんは、ちょうどこの頃アメリカにいたんですよね。

「そう、70年に高校を卒業してサンフランシスコに数か月いて、ジミ・ヘンドリックスのライブを見て日本に帰って来たんだ。

この頃のことで覚えているのは71年の野音(日比谷野外音楽堂)の成毛滋グループや陳信輝グループが出るコンサートに自分たちも呼ばれて。まだバンド名もなかったのに主催者が勝手に〈李世福グループ〉ってポスターに名前を入れちゃったんですよ。自分たちは成毛さんや信輝さんのレベルにはまだまだ及んでいなかったから、その時はこのバンド名を掲げることに抵抗あったんです。

李世福コネクションの2020年作『LIVE 1976』トレイラー

信輝さんの音楽は、最初にギターを弾いたのを見て驚いた時から、ずっと変わってないと私は思ってます。ベベズの頃までは、ロックでオリジナルをやるっていう発想はなかったんですよ。そうじゃなくて、いかに外国のカッコいい音楽をやるか、っていうね。ジミ・ヘンドリックスの曲も日本ではレコードが出てない時にやったから、東京の人はびっくりしてね。オリジナルをやる発想はアメリカへ行った時に初めて思い至りましたね。それで、信輝さんもパワーハウスが終わってからはオリジナルをやるという時期になったんだと思いますね」

 

スピード・グルー&シンキ
(左から)陳信輝、ジョーイ・スミス、加部正義
2016年7月、神奈川・本牧ゴールデンカップにて(提供:harakiri films)

スピード・グルー&シンキは終わってないよ。マー坊もジョーイもずっといる

――その後、71年に入ってすぐにスピード・グルー&シンキの録音が始まります。ジョーイ・スミスさんとはどう知り合ったんですか。

「ゼロ・ヒストリー(フィリピンから来日し東京や横浜のディスコで活動していたブルースロックバンド)というバンドを東京でやってたんだよ。横浜だとアストロ(元町のディスコティック)でやってた。ボーカルとしてだよ、ドラムじゃなくて。でもドラムをやると、ああなっちゃうんだよ、凄いな。この3人は自然に集まったんだな」

――そして、いきなりファーストアルバム『イヴ(前夜)』のレコーディングとなるわけですが。

「そう、折田さんから言われて」

――記録では3か月かかってます。

「2日で終わったよ。日本コロムビアのスタジオだった」

71年作『イヴ(前夜)』収録曲“Stoned Out Of My Mind”

――今回リリースされる『MAAHNGAMYAUH』のライブが行われたのはアルバムの録音が終わった直後だと言っていましたよね。

「録音の前にやることはないからね、(曲が)出来てないから。このライブの曲はアルバムの2曲だからね。2曲目(“WALL ST JAM”)と4曲目(“DO YOU WANNA KNOW”)は曲がないのにやったんだよね」

『MAAHNGAMYAUH』トレイラー

――この日のことは覚えてるんですか。

「唯一覚えてるのが、ジョーイが〈いち、にー、さん、よん〉って初めて日本語でカウントしたことだね」

――このライブ音源からもわかりますが、上手に陳さん、下手に加部さんがいます。ステージはいつもそうだったんですか。

「(上手だと)見やすいからだよ、2人の動きが見えて指示もしやすいから」

「この頃はよく自分のバンドとライブで一緒になりましたね。72年、フラワー・トラベリン・バンドの帰国凱旋コンサートが横浜野音であった時に李世福グループで迎えたんだけど、急遽、スピード・グルー&シンキが出ることになってね。客席は盛り上がってましたね。

この時も信輝さんの音楽は変わっていっているんじゃなくて自分にとっては同じ、(変化があったとしても)その中での変化だと思いましたね」

――71年すぐにアルバムを録音して夏にはセカンドアルバム『スピード・グルー&シンキ』の録音が始まり、ここで加部さんがバンドからいなくなります。

「スタジオには来るんだけど部屋から出てこなくてさ」

――いろんなゲストを呼んで完成させたんですね。

「(ゲストを)呼んだのは(制作の)最初からだったね。ジャケットが先に出来たから、完成させなきゃいけなかったんだよ」

72年作『スピード・グルー&シンキ』収録曲“Run And Hide”

――セカンドアルバムの制作は結構な予算があったと聞いています。

「(録音は目黒の)モウリスタジオだろ。100回(レコーディングをした)とまではいかないけど、ずっとスタジオにいたね。好きなだけ使っていいからって」

――そして、スピード・グルー&シンキは終わります。

「終わってないよ。マー坊(加部正義)もジョーイもずっといるんだよ。

一番最初はイギリスやアメリカのカッコいい音楽を紹介した。それから、それを自分たちで作った。今は、それらを次に残したくてみんなの協力を得ながらやってるんだ」

 


RELEASE INFORMATION

スピード・グルー&シンキ 『MAAHNGAMYAUH』 SUPER FUJI(2021)

リリース日:2021年10月6日(水)
品番:FJSP435
フォーマット: CD
価格:2,695円(税込)

TRACKLIST
1. STONED OUT OF MY MIND
2. WALL ST JAM
3. MR WALKING DRUGSTORE MAN
4. DO YOU WANNA KNOW

■メンバー
陳信輝 Shinki Chen(ギター)
加部正義 Masayoshi Kabe(ベース)
ジョーイ・スミス Joey Smith(ドラムス/ボーカル)

録音場所日時不明

ジャケット画:加部正義
編集・マスタリング:中村宗一郎(ピースミュージック)
デザイン:MayGoo
解説:山田順一

 


PROFILE: スピード・グルー&シンキ(SPEED, GLUE & SHINKI)
70年代初期のヘヴィブルースサイケロックを代表するバンド。90年代以降、海外から再評価され続けている。66年、陳信輝と加部正義は、竹村栄司(CHIBO)率いるガレージロックバンド、ミッドナイト・エクスプレスに参加後、それぞれ日本を代表するブルースロックバンドであるパワーハウスとゴールデン・カップスを経て、70年、陳信輝は加部正義、つのだひろ、柳田ヒロとフード・ブレインを結成しアルバム『晩餐』を発表。陳信輝は71年にファーストソロアルバム『SHINKI CHEN』をリリース後、加部正義に加え、在日フィリピンミュージシャンのジョーイ・スミスとスピード・グルー&シンキを結成。スピード・グルー&シンキは『イヴ(前夜)』と『スピード・グルー&シンキ』の2枚のアルバムを残し72年に解散、実質1年強の活動だった。ジョーイ・スミスはフィリピンに帰国しホワン・デ・ラ・クルス・バンド(Juan De La Cruz Band)に加入、国民的英雄バンドに押し上げた。

PROFILE: 陳 信輝(SHINKI CHEN)
1949年、神奈川・横浜生まれ。66年結成のミッドナイト・エクスプレスからパワーハウスを経て、70年にフード・ブレイン、71年にスピード・グルー&シンキで活動。71年にソロアルバム『SHINKI CHEN』を発表。74年、陳信輝グループで福島・郡山の〈ワンステップフェスティバル〉に出演。80~90年代は実業家として活躍していたが、2000年代後半よりライブ活動を再開している。

PROFILE: 李 世福(LEE SU FU)
1951年、神奈川・横浜中華街生まれ。10代から米軍キャンプやディスコでライブ活動を始め、70年に単身渡米しジミ・ヘンドリックス、クリームやアルバート・キングなどのライブを体験。帰国後、タミー今井らとハードロックスタイルでオリジナルを演奏する李世福グループを結成、横浜野外音楽堂、日比谷野外音楽堂を中心に活動、後に李世福コネクションと改める。84年、初のアルバム『罌粟花』を発表。松田優作との交遊から詞を提供された“灰色の街”(81年)は代表曲である。ブルースを基調にチャイニーズロックを掲げ現在も横浜を中心に活動を続けており、2006年には鮎川誠やジョニー吉長をゲストに迎えたアルバム『大地に向かって』を発表。