キューブリック的なリアリズムで描くスター指揮者リディア・ターのおそるべき物語
もしもキューブリックが、クラシック音楽の演奏家を題材にした映画を撮っていたら? トッド・フィールド監督の「TAR/ター」を見終わった直後、そんな思いが即座に脳裏をよぎった。俳優でもあり、ジャズ・ピアノの腕前も達者なフィールドは、キューブリックの遺作「アイズ ワイド シャット」に出演し、トム・クルーズ扮する主人公に秘密クラブのパスワード〈フィデリオ〉をこっそり教える場面を印象深く演じていただけでなく、あまつさえピアノ演奏まで披露していた。したがって、彼がキューブリック的なリアリズムを追求した音楽映画を作ったとしても、不思議どころか、むしろ当然と言えるだろう。
それにしても、この映画で描かれるスター指揮者リディア・ターは、なんと魅力的でおそろしいキャラなのだろう! 簡単に言えば「2001年宇宙の旅」のHAL 9000みたいに欠点を持たない完璧な指揮者なのだ。少なくとも見事な経歴という点では。
カーティス音楽院とハーバード大学を卒業し、女性初のベルリン・フィル首席指揮者に就任すると、ドイツ・グラモフォンでマーラーの交響曲全集録音に着手。作曲家としては、アカデミー賞やグラミー賞などを総なめにし、おまけに民俗音楽のフィールドワークの研究実績まである。公開対談の席に座れば、ナディア・ブーランジェから始まる女性指揮者の系譜をよどみなく語り続け、ジュリアード音楽院の授業で教鞭を執れば、グールド風にピアノを弾きながら音楽の価値はジェンダーや人種と関係ないと熱弁を振るう。そして私生活では、恋人のコンサート・ミストレス、シャロン(ニーナ・ホス)と同棲し、幼い養女を育てている――。つまり彼女は、バーンスタインやカラヤンやアバドのように楽壇の頂点に君臨する巨匠指揮者にして、LGBTQミュージシャンの旗振り役のような存在なのである。
こういう設定を思いつくだけなら、ある意味、誰でもできる。しかし、そのキャラに血肉を与え、映画の観客が納得する主人公として描くとなると、話は別だ。ましてや、キューブリック的なリアリズムを追求しながら描くなど、ほとんど不可能に近い。
その不可能を、フィールド監督とリディア役のケイト・ブランシェットは見事にやってのけてしまったのだ。
この映画では、ほぼすべての演奏シーンが撮影現場で同時録音され、その演奏がそのまま本編にも使用されている。昨年公開された「ウエスト・サイド・ストーリー」や「アネット」のようなミュージカル映画を引き合いに出すまでもなく、俳優の演奏(歌唱)の同時録音は現在の音楽映画の標準になりつつあるので、それ自体は珍しいことではない。だが、この映画の物語の大半は、リディアがマーラーの“交響曲第5番”の本番――それがドイツ・グラモフォンによってライブ収録され、マーラー全集の掉尾を飾る予定になっている――に向けて、オケとリハを続けていく期間に起こる出来事として描かれている。当然のことながら、そのリハ場面も同時録音で撮影しなければ、リアルでなくなってしまう。
フィールド監督とブランシェットが選択した解決法は、驚くほどシンプルである。つまり、ブランシェットが実際にリハの指示を与えながらオケを指揮し、マーラーを演奏していくというものだ。かくしてこの映画では、ベルリン・フィル役に扮したドレスデン・フィルがブランシェットの指揮でマーラーの演奏を披露し、その同時録音が映画本編にそのまま使われている。そればかりか、その同時録音は本作のサントラ盤にも収録され(なんとドイツ・グラモフォンからリリース)、おまけにそのサントラ盤のカバーアートは、アバドがベルリン・フィルを指揮して1993年に録音したマーラーの第5番のCDを意識して撮影されているのである!