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史上最大のカムバック

 アイク&ティナのライヴがキャンセルになったことから訴訟が重なり、借金を返済するためにティナは契約の残っていたレーベルから資金提供を受けて独力でツアー活動を再開。以前より小規模な会場も回りながらパフォーマンスを続けた。ただ、ディスコ時代を意識した78年の『Rough』、翌年の『Love Explosion』はチャートインを逃し、ティナはレコード契約を失うことになる。生活苦から別の仕事も行っていたというこの時期は辛いものだったはずだが、彼女はそれでもタフに生き延びた。79年には、オリヴィア・ニュートン・ジョンらを顧客に持つ敏腕マネージャーのロジャー・デイヴィスにマネージメントを託し、TVシリーズへの出演など表舞台への可能性を残しながら活動を継続していく。

 そうした苦境の中でも、彼女を音楽シーンの最前線へ引き戻す動きは英国の新旧世代からのサポートによって同時多発的に進行していた。81年にはロッド・スチュワートから「サタデー・ナイト・ライブ」でのパフォーマンスに誘われ、同年には旧知のローリング・ストーンズの全米ツアーでオープニング・アクトに起用されている。82年には元ヒューマン・リーグ~ヘヴン17のサイド・プロジェクトであるB.E.F.に招かれてテンプテーションズの“Ball Of Confusion”のカヴァーを披露。同曲はノスタルジックなソウルやポップスを現代的に再解釈するレトロ・モダンな欧州の流行にも乗って話題を集め、MVは開局されたばかりのMTVでも放送されている。

 とはいえアイクの元を逃れてから7年、その時点での彼女は〈かつてスターだった懐かしの有名人〉と見なされていたはずで、本国USではホテルやクラブでのパフォーマンス活動が主な仕事だったという。そんななかで実現したのがキャピトルとの契約で、83年の11月、B.E.F.のプロデュースしたシングル“Let’s Stay Together”で再デビューを果たす。アル・グリーンのカヴァーとなる同曲がレトロ・モダンな流れを期待されていたのは明白だが、結果は全英6位という予想外のスマッシュ・ヒットとなり、そのままアルバム制作が決定。実に5年ぶりのアルバムとなった『Private Dancer』は84年5月にリリースされる。これが〈ポップ音楽史上最大の復活劇〉の幕開けとなった。

 結果的に同作は全英2位/全米3位までチャートを上昇し、最終的に全世界で1,000万枚以上のセールスを記録する大ヒットとなった。84年といえば、「フットルース」のサントラやブルース・スプリングスティーンの『Born In The U.S.A.』、プリンスの『Purple Rain』といったモンスターたちが全米1位を長く独占した年であるわけで、3位に甘んじた『Private Dancer』がいかに長く支持を集めていたかも窺えようものだろう。それに加えて、アルバムからの2枚目のシングル“What’s Love Got To Do With It”は同年9月にキャリア初の全米No.1を達成。〈愛の魔力〉という邦題でも知られるこの曲はもともとクリフ・リチャードのために書かれたものの採用されず、フィリス・ハイマンやドナ・サマーらの手を回ってきたもので、曲を書いたテリー・ブリテンは以降もティナの作品には欠かせないプロデューサーとなっている。アルバムからは他にもルパート・ハイン制作の“Better Be Good To Me”、マーク・ノップラーの書いた“Private Dancer”が全米TOP10入り。この成果によってティナは翌年のグラミーで“What's Love Got To Do With It”の年間最優秀レコードなど3部門を制することになった。

 成功は数珠繋ぎ的に続く。85年にはアルバム・サポートのためのワールド・ツアーを開催し、USA・フォー・アフリカのチャリティー・ソング“We Are the World”にも堂々のリード・パートで参加。チャリティーでいえば〈Live Aid〉におけるミック・ジャガーとのパフォーマンスも話題となった。さらには「トミー」以来の演技仕事としてメル・ギブソン主演映画「マッドマックス/サンダードーム」で魅力的な主要キャストを好演し、同作のために提供した“We Don’t Need Another Hero (Thunderdome)”が世界各国でTOP10入りを果たすなど、これまでの不遇を100倍返しするかのような成功が訪れた。

 その流れに乗って発表した次のアルバム『Break Every Rule』(86年)も世界的なヒットとなる。同作を引っ提げて世界を回るなか、88年1月に行ったリオデジャネイロのマラカナン・スタジアム公演では何と約18万人を動員するという当時のギネス世界記録を樹立した。このように凄まじい数字を叩き出す日々は89年作『Foreign Affair』でも続き、400万人を観客を動員した同作の欧州ツアーはローリング・ストーンズの持っていた記録を凌ぐ記録となっている。