ダイナマイトなパフォーマーにして誇り高いヴォーカリスト、アシッド・クイーンでありアウンティ・エンティティ、ソウル・サヴァイヴァーにしてロックンロールの女王……つまり彼女こそがザ・ベスト。天に召された偉大なエンターテイナーの功績を改めて振り返ろう
〈ロックンロールの女王〉として君臨し、その波瀾万丈なキャリアを駆け抜けたティナ・ターナー。世界中で1億枚以上のレコード・セールスを上げた数少ないアーティストのひとりであり、グラミーの獲得は生涯功労賞や殿堂入りも含めて12回。そんな彼女が『Tina Turns The Country On』(74年)でソロ・キャリアを本格的に開始してから50年という節目を記念したのが、このたび届いた集大成的なアンソロジー『Queen Of Rock ‘N’ Roll』である。ここには彼女がソロで発表してきたシングル曲がほぼすべて網羅され、その足跡を全55曲で辿れる集大成的なパッケージと言えるだろう。ただ、彼女自身の音楽活動はもちろんその50年に収まるものではなく(厳密に言えば、ティナがソロでクレジットされたシングル“Too Many Ties That Bind”は64年に出ている)、アイク・ターナーに見い出されて活動をスタートした頃から数えれば、彼女のキャリアの起点は実に70年近く前まで遡れる。自伝を元に映画も作られたライフ・ストーリーについてはすでにお馴染みの部分もあろうが、今回は改めてその軌跡を簡単に紹介していこう。

爆発的なパフォーマンス
ティナ・ターナーことアンナ・メイ・ブロックは1939年11月26日にテネシー州ブラウンズヴィルで生まれている。第二次世界大戦に伴う両親の仕事の都合で故郷を離れた時期もあったものの、ブロック家はテネシー州のヘイウッド郡にあるナットブッシュという田舎町に住まい、そこでアンナは教会の聖歌隊で歌いながら大きくなった。彼女自身のペンで故郷への思いを綴った“Nutbush City Limits”(73年)が後年までたびたびパフォーマンスされていたのも、決して自作曲だからとかいう単純な理由ではないはずだ。
学校に通いながらパートタイムで働きつつ、高校ではチアリーディングとバスケットボールの両方のチームに所属するなど、当時から活発で目立つ存在だったのだろう。卒業後は病院で看護助手として働くものの、出かけたクラブでキングス・オブ・リズムを率いるアイク・ターナーのライヴ・パフォーマンスを目にして衝撃を受けるや、自身を売り込んで56年にバンドに加入。アイクからステージでのパフォーマンスや歌唱法などを教わってヴォーカリストとして成長していく(なお、当時のアンナはバンドのサックス奏者であるレイモンド・ヒルと交際していた)。レコード・デビューはバンドが58年にリリースしたシングル“Boxtop”で、彼女はここで〈リトル・アン〉という名で初めてのクレジットを得た。
それからしばらく経った60年、アイクが他の歌手のために書いた曲の録音現場で、結果的にセッションに現れなかった歌手の代わりに曲を録音。“A Fool In Love”というその音源がスー・レコードから出ることになり、フロントに立つための名義としてアンナに付けられたのが〈ティナ・ターナー〉であった。名前の由来はアイクが好きなコミック「ジャングルの女王シーナ」から、ターナー姓との語呂も考えて〈ティナ〉にしたという。その“A Fool In Love”はR&Bチャートで2位という破格のヒットを記録。3枚目のシングル“I Idolize You”もチャート5位に輝き、アイク&ティナ・ターナーの快進撃はそこから始まったのだ。
リズム&ブルース~ロックンロールが一般化していく時代の流れにあってアイクの音楽性も変化。演奏隊のキングス・オブ・リズムと女性ヴォーカル・グループのアイケッツを従えたアイク&ティナ・ターナー・レヴューは強力なライヴ・アンサンブルとして高い人気を博していくことになり、ティナの爆発的なパフォーマンスはレヴューの大看板となった。彼らのショウは徐々にスケールアップしてラスベガスで公演を行うまでになり、会場にはスライ・ストーンやジャニス・ジョプリンからレイ・チャールズやエルヴィス・プレスリーまで多くのスターたちが出入りするようになったという。
そんなステージの強度を後ろ盾に、彼らは数年かけてケント、フィレス、ポンペイ、A&M、ミニット、ブルーサムなど10以上のレーベルを転々と渡り歩く。特筆すべき結果を生んだのはフィル・スペクター制作の“River Deep-Mountain High”(66年)で、これは全英3位を筆頭にヨーロッパで成功を収めた。その人気を受けてアイク&ティナはローリング・ストーンズの英国ツアーのオープニング・アクトに抜擢され、生涯を通じてティナを支えた欧州人気の下地が生まれていく。
大型フェス出演も増えた70年代に入ると彼らは白人バンドのロック・ナンバーをより自由に披露してファン層を拡大。なかでもクリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァルの曲を取り上げた“Proud Mary”はデュオのキャリアで最高の全米4位に達し、以降もアグレッシヴにステージで泳ぎ続けるティナならではの代表曲となった。
72年にアイクがカリフォルニアに自身の新スタジオを構える一方、先述のソロ作やデュオでの『The Gospel According To Ike & Tina』(74年)が成功を収めたティナは、ロンドンで撮影したロック・オペラ「トミー」におけるアシッド・クイーン役の演技でも高評価を得て、そこからは2枚目のソロ作『Acid Queen』(75年)も生まれている。ただ、表向きは順調でも内実はボロボロで、重度のコカイン中毒に陥っていたアイクの暴力にも我慢の限界だったのだろう。76年の7月1日、LAからダラスのホテルでの公演に向かう途中で口論になり、ティナはわずか36セントとガソリンカードを持ってアイクの元を飛び出している。その月のうちに申請された離婚が成立したのは78年に入ってからだった。

史上最大のカムバック
アイク&ティナのライヴがキャンセルになったことから訴訟が重なり、借金を返済するためにティナは契約の残っていたレーベルから資金提供を受けて独力でツアー活動を再開。以前より小規模な会場も回りながらパフォーマンスを続けた。ただ、ディスコ時代を意識した78年の『Rough』、翌年の『Love Explosion』はチャートインを逃し、ティナはレコード契約を失うことになる。生活苦から別の仕事も行っていたというこの時期は辛いものだったはずだが、彼女はそれでもタフに生き延びた。79年には、オリヴィア・ニュートン・ジョンらを顧客に持つ敏腕マネージャーのロジャー・デイヴィスにマネージメントを託し、TVシリーズへの出演など表舞台への可能性を残しながら活動を継続していく。
そうした苦境の中でも、彼女を音楽シーンの最前線へ引き戻す動きは英国の新旧世代からのサポートによって同時多発的に進行していた。81年にはロッド・スチュワートから「サタデー・ナイト・ライブ」でのパフォーマンスに誘われ、同年には旧知のローリング・ストーンズの全米ツアーでオープニング・アクトに起用されている。82年には元ヒューマン・リーグ~ヘヴン17のサイド・プロジェクトであるB.E.F.に招かれてテンプテーションズの“Ball Of Confusion”のカヴァーを披露。同曲はノスタルジックなソウルやポップスを現代的に再解釈するレトロ・モダンな欧州の流行にも乗って話題を集め、MVは開局されたばかりのMTVでも放送されている。
とはいえアイクの元を逃れてから7年、その時点での彼女は〈かつてスターだった懐かしの有名人〉と見なされていたはずで、本国USではホテルやクラブでのパフォーマンス活動が主な仕事だったという。そんななかで実現したのがキャピトルとの契約で、83年の11月、B.E.F.のプロデュースしたシングル“Let’s Stay Together”で再デビューを果たす。アル・グリーンのカヴァーとなる同曲がレトロ・モダンな流れを期待されていたのは明白だが、結果は全英6位という予想外のスマッシュ・ヒットとなり、そのままアルバム制作が決定。実に5年ぶりのアルバムとなった『Private Dancer』は84年5月にリリースされる。これが〈ポップ音楽史上最大の復活劇〉の幕開けとなった。
結果的に同作は全英2位/全米3位までチャートを上昇し、最終的に全世界で1,000万枚以上のセールスを記録する大ヒットとなった。84年といえば、「フットルース」のサントラやブルース・スプリングスティーンの『Born In The U.S.A.』、プリンスの『Purple Rain』といったモンスターたちが全米1位を長く独占した年であるわけで、3位に甘んじた『Private Dancer』がいかに長く支持を集めていたかも窺えようものだろう。それに加えて、アルバムからの2枚目のシングル“What’s Love Got To Do With It”は同年9月にキャリア初の全米No.1を達成。〈愛の魔力〉という邦題でも知られるこの曲はもともとクリフ・リチャードのために書かれたものの採用されず、フィリス・ハイマンやドナ・サマーらの手を回ってきたもので、曲を書いたテリー・ブリテンは以降もティナの作品には欠かせないプロデューサーとなっている。アルバムからは他にもルパート・ハイン制作の“Better Be Good To Me”、マーク・ノップラーの書いた“Private Dancer”が全米TOP10入り。この成果によってティナは翌年のグラミーで“What's Love Got To Do With It”の年間最優秀レコードなど3部門を制することになった。
成功は数珠繋ぎ的に続く。85年にはアルバム・サポートのためのワールド・ツアーを開催し、USA・フォー・アフリカのチャリティー・ソング“We Are the World”にも堂々のリード・パートで参加。チャリティーでいえば〈Live Aid〉におけるミック・ジャガーとのパフォーマンスも話題となった。さらには「トミー」以来の演技仕事としてメル・ギブソン主演映画「マッドマックス/サンダードーム」で魅力的な主要キャストを好演し、同作のために提供した“We Don’t Need Another Hero (Thunderdome)”が世界各国でTOP10入りを果たすなど、これまでの不遇を100倍返しするかのような成功が訪れた。
その流れに乗って発表した次のアルバム『Break Every Rule』(86年)も世界的なヒットとなる。同作を引っ提げて世界を回るなか、88年1月に行ったリオデジャネイロのマラカナン・スタジアム公演では何と約18万人を動員するという当時のギネス世界記録を樹立した。このように凄まじい数字を叩き出す日々は89年作『Foreign Affair』でも続き、400万人を観客を動員した同作の欧州ツアーはローリング・ストーンズの持っていた記録を凌ぐ記録となっている。
穏やかな幕引き
ただ、何かを取り戻そうとするような全力の貪欲さはここまでで、90年代に入るあたりからティナはよりマイペースな活動サイクルへと緩やかに移行していった。初のベスト盤『Simply The Best』を発表した91年にはアイク&ティナ・ターナーとして〈ロックの殿堂〉入り。93年には彼女の著作をベースにアンジェラ・バセット(ティナ役)とローレンス・フィッシュバーン(アイク役)が主演した自伝的な映画「TINA ティナ」も公開……と、過去を総括するような動きが相次ぐなかでティナはスイスに永住し、大御所としての存在感を折に触れて発揮しながら、穏やかな暮らしを優先するようになる。
95年にはU2のボノとエッジが書いた“GoldenEye”を映画『007/ゴールデンアイ』に提供し、96年にはそれも含むアルバム『Wildest Dreams』を発表。そして、60歳の誕生日に前後するタイミングで発表した99年の『Twenty Four Seven』は結果的に最後のオリジナル・アルバムとなった。同作の大規模なツアーは2000年で最高の興行収入を上げたツアーとなるが、チューリッヒでの公演にて彼女はツアー終了をもって引退することを発表する。
ゆえに以降のアーティストとしての動きは散発的だ。2004年の『All The Best』などの編集盤は出るたびにヒットし、ステージに立てば周囲を圧倒するものの、振り返ってみれば幕はゆっくりと下ろされつつあった。ビヨンセとのステージ共演が話題となった2008年のグラミー授賞式を経て、同年10月からはデビュー50周年を記念して10年ぶりのツアーを開催。そして2009年、彼女は正式にライヴ活動から引退する。
Vogue誌の表紙を史上最高齢の73歳で飾った2013年、ティナは27年間の交際を続けてきたエルヴィン・バッハと結婚。その後は自身の生涯に基づいたミュージカル「ティナ」に取り組んだり、回想録を執筆したり、グラミーの生涯功労賞を受賞したり。著書では自身の病状についても率直に綴っていたが、そんななかでも2020年にカイゴとのコラボで“What’s Love Got To Do With It”のリミックスを発表し、そのヒットによって彼女は7つのディケイドで全英TOP40を記録した唯一の存在となっている。さらに2021年には自身のドキュメンタリー映画「ティナ」に出演。ソロ・アーティストとしても〈ロックの殿堂〉入りを果たすも、スイスのチューリッヒ近郊の自宅から中継で賞を受け取った。
今回リリースされたアンソロジー『Queen Of Rock ‘N’ Roll』には、レッド・ツェッペリン“Whole Lotta Love”のカヴァーで始まる70年代の楽曲から、黄金の80年代、円熟の90年代……と時系列でシングル群が並び、デュオ時代を代表する“River Deep, Mountain High”や“Proud Mary”“Nutbush City Limits”もライヴ音源や90年代のリメイクで収録されている。そして先述の“What's Love Got To Do With It(Kygo Remix)”に続くラストには、盟友テリー・ブリテンが過去曲をモダナイズした新曲“Something Beautiful”が収録。美しいものは彼女の歌の中にあり続けるはずだ。
左から、75年のサントラ『Tommy』(Polydor)、エリック・クラプトンの85年作『August』(Warner Bros.)、サンタナのベスト盤『Ultimate Santana』(Arista)、ハービー・ハンコックの2007年作『River: The Joni Letters』(Verve)

THE KING OF THE KINGS OF RHYTHM
〈ティナ・ターナー〉を作った男、アイク・ターナー
現代の観点で照らさなくてもアウトな気質の持ち主として語られるアイク・ターナーながら、そうであってもティナのキャリアを語るうえで彼の名を欠かすことはできないし、彼がポップ音楽の歴史に果たした役割は変わらない。1931年にミシシッピ州クラークスデイルで生まれた彼はハードな環境の中でピアノやギターの演奏を修得し、戦後まもない40年代後半に友人たちとキングス・オブ・リズムを結成している。バンドのサックス奏者であるジャッキー・ブレンストンが歌って51年にレコードになった“Rocket 88”は〈ロックンロール最初の1曲〉とされることも多いエポックメイキングな曲で、そのバンドにやがて君臨するティナが〈ロックンロールの女王〉と呼ばれたのは真っ当なのかもしれない。
ブルースやブギウギ、初期のロカビリーを我流で血肉化したアイクの演奏は独自のルートでロックンロールやリズム&ブルース、ソウル、ファンクに辿り着き、それは60年にアイク&ティナを結成してからより研ぎ澄まされていった。並行してコーラス隊のアイケッツやバンドのキングス・オブ・リズムでの作品も出し、ボリック・サウンド・スタジオ設立後は制作に没頭していくが、ティナに去られてからは時代の流れもあって完全に失速。91年の〈ロックの殿堂〉入りも獄中で迎えるなどトラブル続きの日々を送る。2005年にゴリラズとコラボし、2006年の最終作『Risin’ With The Blues』でグラミーを受賞して失地回復するも、ブラック・キーズとのコラボ話も進んでいた2008年にドラッグ禍で逝去している。*轟ひろみ
左から、アイク・ターナーの編集盤『Trailblazin’ The Blues 1951-1957』(Jasmine/OCTAVE)、アイク・ターナー&ザ・キングス・オブ・リズムの69年作『A Black Man’s Soul』(Pompeii/OCTAVE)、アイク・ターナーの80年作『The Edge』(Fantasy)、ゴリラズの2005年作『Demon Days』(Parlophone)、アイク・ターナーの2006年作『Risin’ With The Blues』(Zoho Roots)
DISCOGRAPHIC
TINA TURNER
ティナ・ターナーを知るための11枚

こういう時代のものはちゃんとした編集盤などで聴くほうがベストだろうが、何はなくとも記念すべきデュオでのファースト・アルバム。シンプルでザクザクした粗削りな演奏と、後の姿と比べれば溌剌とした若々しさが漲る逞しい歌唱のコンビネーションは抜群だ。“A Fool In Love”や“I Idolize You”などのプリミティヴなヒットを収録。

フィル・スペクターとアイクがほぼ半々をプロデュースした、デュオのディスコグラフィーにおいても異色の一枚。ティナの力強さが〈ウォール・オブ・サウンド〉を越えて表現されたという意味で、特に表題曲はフィル自身が最高傑作と認めていたという。アイクの制作曲ではPP・アーノルド在籍時のアイケッツがサポートしている。

両名のコンビネーションがスリリングながらも息の合ったバランスに着地していることもあって、ヒット規模以上に良品が多いポンペイ~ブルーサム時代の代表作。ジョニー・オーティス曲を取り上げた表題曲や、“Shake A Tail Feather”など、同時代のロックに挑んでいく前のブルース~ソウル色の濃厚な舌触りが何とも味わい深い。

野性味とロマンに溢れたジャケがかっこいいリバティ移籍後の2作目。問答無用の“Proud Mary”やビートルズ“Get Back”などのカヴァーが目立つが、後にニッカ・コスタも歌った“Funkier Than A Mosquita’s Tweeter”などのオリジナルもファンキーで最高だ。R&Bチャート3位を記録し、デュオのもっとも成功したアルバムとなった。

急に洒落たジャケになったUA移籍作。ボリック・サウンドを拠点に創作意欲を爆発させるアイクは絶好調で、ティナも積極的にソングライトに関与していた時期ならではの一体感も伝える。“Sweet Flustrations”などの6曲にはソングライターとして若き日のリオン・ウェアが参加。いわゆるアルバム的な充実度も意識された佳作だ。

5年のブランクを経たソロ5作目にしてカムバックを演出した特大ヒット・アルバム。構えて聴く必要もなく簡素な歌心だけで勝負してくる潔い作りで、代表曲“What’s Love Got To Do With It”などを手掛けた盟友テリー・ブリテン、ルパート・ハインらが80s的なクリアな音作りで好サポート。ビートルズ“Help!”のブルージーな解釈も良い。

「マッドマックス」効果も続くなかで型破りな力強さを打ち出した一枚。テリー・ブリテンによる“Typical Male”を筆頭にマーク・ノップラーやルパート・ハインらが続投し、明るいシンセの弾むポップなナンバーが揃う。フィル・コリンズやスティーヴ・ウィンウッド、ブランフォード・マルサリスなど演奏陣の豪華さも旬の勢いを窺わせる。

冒頭のシンセ・ロック“Steamy Windows”を筆頭にほとんどのプロデュースをダン・ハートマンに委ねた意欲作。ボニー・タイラーの曲を我が物にした“The Best”の名演やアルバート・ハモンド作ならではの哀感を帯びた“Be Tender With Me Baby”など全体を覆うスタジアム・ロック的なスケール感が爽快に響いてくる。

伝記映画のサントラも兼ねた一枚で、中心になるのは映画用に再録したデュオ時代の曲。“Proud Mary”や“A Fool In Love”、2年前のベスト盤でも再録した“Nutbush City Limits”などの選曲が興味深い。“I Don’t Wanna Fight”やブライアン・アダムスによる“Why Must We Wait Until Tonight”などのオリジナル曲も充実している。

拠点をスイスに移して以降の初アルバム。ボノ&エッジによる書き下ろしをネリー・フーパーが重厚に仕立てた〈007〉主題歌の“GoldenEye”、ペット・ショップ・ボーイズ製の“Confidential”、マッシヴ・アタックのカヴァーなど欧州志向をいよいよ深めたポップな転機作。スティングやアントニオ・バンデラスも客演している。

60歳を祝うタイミングで登場し、結果的に最後のオリジナル・アルバムとなった充実作。盟友シェールを復権に導いたマーク・テイラー&ブライアン・ロウリングをダンス路線の核に招きつつ、アダルト・コンテンポラリー色を増してゆったり聴かせる側面もいい。時流に寄らない盟友テリー・ブリテンの安定した手捌きも聴きものだ。
OTHERDISCOGRAPHIC
IKE & TINA TURNER
Dynamite!(1962)
Don’t Play Me Cheap(1963)
It’s Gonna Work Out Fine(1963)
Ike & Tina Turner Revue Live(1964)
Get It - Get It(1966)
The Soul Of Ike & Tina(1966)
Outta Season(1969)
Cussin’, Cryin’ & Carryin’ On(1969)
The Hunter(1969)
Come Together(1970)
Feel Good(1972)
Let Me Touch Your Mind(1973)
Nutbush City Limits(1973)
The Gospel According To Ike & Tina(1974)
Sweet Rhode Island Red(1974)
Delilah’s Power(1977)
The Edge(1980)
TINA TURNER
Tina Turns The Country On(1974)
Acid Queen(1975)
Rough(1978)
Love Explosion(1979)
LIVE ALBUM
Tina Live In Europe(1988)
Tina Live(2009)
COMPILATION
Simply The Best(1991)
All The Best(2004)
Tina!(2008)
Love Songs(2014)
Queen Of Rock ‘N’ Roll(2023)
...and more!
PEOPLE TREE
耳で聴いたピープル・トゥリー

ヒューマン・リーグのマーティン・ウェアとクレイグ・マーシュによる電子音楽プロジェクト。この初作に続く流れでティナを『Music Of Quality & Distinction (Volume One)』(82年)に起用したことが彼女の復活に繋がった。そんな縁からマーティンはカムバック・シングル“Let’s Stay Together”や“1984”のプロデュースに起用されている。

『Get Yer Ya-Ya’s Out!』のスペシャル版ではアイク&ティナのライヴ音源を聴くこともできたが……その時代もソロでもティナをツアーのオープニングに起用し、彼女に曲を歌われている例も多いのはやはりストーンズだろうか。〈Live Aid〉におけるミック・ジャガーとティナの凄まじいパフォーマンスはもはや語り草。

ソニー&シェールで同じ苦労を味わったからか、この〈ポップの女神〉と〈ロックンロールの女王〉は75年のTV共演から意気投合して仲を深めたという。示唆的な表題の本作ではティナの“Paradise Is Here”をカヴァー。後にティナも手掛けるメトロと組んだ『Believe』(98年)での前線復帰後は、ティナと同じロジャー・デイヴィスにマネージメントを委ねている。

訃報が届く前の今年初めの時点で、次のツアーが〈ティナにインスパイアされたものになる〉と語っていたピンク。クリエイティヴ・コントロールを握った路線変更作『M!ssundaztood』(2001年)から世界的にブレイクした彼女だが、その転機を推進したのはティナを手掛ける敏腕マネージャーのロジャー・デイヴィスであった。

もともと〈復活〉前のティナをよくクラブに観に行っていたというカナダの青春ロッカーは、この全米No.1作品で“It’s Only Love”をティナと熱血デュエットし、彼女の“Back Where You Started”(86年)を提供/プロデュースしてもいる。ちなみにティナは最終的に〈三銃士〉とのコラボをコンプリートすることに成功。

カヴァー巧者だけあって、そうと知られていないカヴァー曲も数多いティナながら逆のパターンもある。彼女のシングル“Typical Male”(86年)のB面に収まっていた“Don’t Turn Around”は、アスワドのレゲエ・ヴァージョンを経由して、スウェーデンから世界に飛躍したこの4人組の特大ヒットになった。

コーラス/ダンサー隊として、アイク&ティナのステージや音源を華やかに盛り上げたアイケッツ。PPアーノルドら多くのソロ歌手を生んだトリオだが、特にオリジナル構成員だったロビー・モンゴメリー、ヴェネッタ・フィールズ、ジェシー・スミスは、65年にアイクの元を去ってミレッツとしてデビューし、実力派ぶりを見せつけている。

68年にアイケッツに加入し、ティナと口論になるまでの数年間は活動を共にしたクラウディア。70年代にはソロ活動も行ったが、それより有名なのはアイク&ティナがローリング・ストーンズの前座を務めた時期にミック・ジャガーに惚れ込まれ、“Brown Sugar”のモデルになったことか。ボウイとも同様の逸話がある。

21世紀に入ってからは後進と絡む機会もほぼなかったティナだが、2008年のグラミー授賞式ではビヨンセと“Proud Mary”を弩級のコラボレーション。豪快なステージングの迫力は言わずもがな、ダンサーと大暴れする“Single Ladies (Put A Ring On It)”のパフォーマンスも強引に考えればティナっぽいかも?

低迷期のティナに手を差し伸べ、TVでのパフォーマンスに誘ったりもしていたロッド。その後はバーナード・エドワーズが制作したこちらの自作にてマーヴィン・ゲイ&キム・ウェストンのカヴァー“It Takes Two”でティナとの熱いデュエットを実現させた。

彼もまたアイク&ティナ時代からのファンだったという人。彼女のカムバック作にて“1984”がカヴァーされたことを受けてなのか、本作ではレゲエ風味のタイトル曲のデュエット相手に招いてシングル・ヒットさせている。ティナの『Live In Europe』では同曲に加えて“Let’s Dance”でもデュエットを披露した。