ダイナマイトなパフォーマーにして誇り高いヴォーカリスト、アシッド・クイーンでありアウンティ・エンティティ、ソウル・サヴァイヴァーにしてロックンロールの女王……つまり彼女こそがザ・ベスト。天に召された偉大なエンターテイナーの功績を改めて振り返ろう
〈ロックンロールの女王〉として君臨し、その波瀾万丈なキャリアを駆け抜けたティナ・ターナー。世界中で1億枚以上のレコード・セールスを上げた数少ないアーティストのひとりであり、グラミーの獲得は生涯功労賞や殿堂入りも含めて12回。そんな彼女が『Tina Turns The Country On』(74年)でソロ・キャリアを本格的に開始してから50年という節目を記念したのが、このたび届いた集大成的なアンソロジー『Queen Of Rock ‘N’ Roll』である。ここには彼女がソロで発表してきたシングル曲がほぼすべて網羅され、その足跡を全55曲で辿れる集大成的なパッケージと言えるだろう。ただ、彼女自身の音楽活動はもちろんその50年に収まるものではなく(厳密に言えば、ティナがソロでクレジットされたシングル“Too Many Ties That Bind”は64年に出ている)、アイク・ターナーに見い出されて活動をスタートした頃から数えれば、彼女のキャリアの起点は実に70年近く前まで遡れる。自伝を元に映画も作られたライフ・ストーリーについてはすでにお馴染みの部分もあろうが、今回は改めてその軌跡を簡単に紹介していこう。
爆発的なパフォーマンス
ティナ・ターナーことアンナ・メイ・ブロックは1939年11月26日にテネシー州ブラウンズヴィルで生まれている。第二次世界大戦に伴う両親の仕事の都合で故郷を離れた時期もあったものの、ブロック家はテネシー州のヘイウッド郡にあるナットブッシュという田舎町に住まい、そこでアンナは教会の聖歌隊で歌いながら大きくなった。彼女自身のペンで故郷への思いを綴った“Nutbush City Limits”(73年)が後年までたびたびパフォーマンスされていたのも、決して自作曲だからとかいう単純な理由ではないはずだ。
学校に通いながらパートタイムで働きつつ、高校ではチアリーディングとバスケットボールの両方のチームに所属するなど、当時から活発で目立つ存在だったのだろう。卒業後は病院で看護助手として働くものの、出かけたクラブでキングス・オブ・リズムを率いるアイク・ターナーのライヴ・パフォーマンスを目にして衝撃を受けるや、自身を売り込んで56年にバンドに加入。アイクからステージでのパフォーマンスや歌唱法などを教わってヴォーカリストとして成長していく(なお、当時のアンナはバンドのサックス奏者であるレイモンド・ヒルと交際していた)。レコード・デビューはバンドが58年にリリースしたシングル“Boxtop”で、彼女はここで〈リトル・アン〉という名で初めてのクレジットを得た。
それからしばらく経った60年、アイクが他の歌手のために書いた曲の録音現場で、結果的にセッションに現れなかった歌手の代わりに曲を録音。“A Fool In Love”というその音源がスー・レコードから出ることになり、フロントに立つための名義としてアンナに付けられたのが〈ティナ・ターナー〉であった。名前の由来はアイクが好きなコミック「ジャングルの女王シーナ」から、ターナー姓との語呂も考えて〈ティナ〉にしたという。その“A Fool In Love”はR&Bチャートで2位という破格のヒットを記録。3枚目のシングル“I Idolize You”もチャート5位に輝き、アイク&ティナ・ターナーの快進撃はそこから始まったのだ。
リズム&ブルース~ロックンロールが一般化していく時代の流れにあってアイクの音楽性も変化。演奏隊のキングス・オブ・リズムと女性ヴォーカル・グループのアイケッツを従えたアイク&ティナ・ターナー・レヴューは強力なライヴ・アンサンブルとして高い人気を博していくことになり、ティナの爆発的なパフォーマンスはレヴューの大看板となった。彼らのショウは徐々にスケールアップしてラスベガスで公演を行うまでになり、会場にはスライ・ストーンやジャニス・ジョプリンからレイ・チャールズやエルヴィス・プレスリーまで多くのスターたちが出入りするようになったという。
そんなステージの強度を後ろ盾に、彼らは数年かけてケント、フィレス、ポンペイ、A&M、ミニット、ブルーサムなど10以上のレーベルを転々と渡り歩く。特筆すべき結果を生んだのはフィル・スペクター制作の“River Deep-Mountain High”(66年)で、これは全英3位を筆頭にヨーロッパで成功を収めた。その人気を受けてアイク&ティナはローリング・ストーンズの英国ツアーのオープニング・アクトに抜擢され、生涯を通じてティナを支えた欧州人気の下地が生まれていく。
大型フェス出演も増えた70年代に入ると彼らは白人バンドのロック・ナンバーをより自由に披露してファン層を拡大。なかでもクリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァルの曲を取り上げた“Proud Mary”はデュオのキャリアで最高の全米4位に達し、以降もアグレッシヴにステージで泳ぎ続けるティナならではの代表曲となった。
72年にアイクがカリフォルニアに自身の新スタジオを構える一方、先述のソロ作やデュオでの『The Gospel According To Ike & Tina』(74年)が成功を収めたティナは、ロンドンで撮影したロック・オペラ「トミー」におけるアシッド・クイーン役の演技でも高評価を得て、そこからは2枚目のソロ作『Acid Queen』(75年)も生まれている。ただ、表向きは順調でも内実はボロボロで、重度のコカイン中毒に陥っていたアイクの暴力にも我慢の限界だったのだろう。76年の7月1日、LAからダラスのホテルでの公演に向かう途中で口論になり、ティナはわずか36セントとガソリンカードを持ってアイクの元を飛び出している。その月のうちに申請された離婚が成立したのは78年に入ってからだった。