©Julien Mignot

私たちの文明社会が存続するならば……。

 「過去、現在、未来の別はただの幻にすぎない」。アレクサンドル・メルニコフは7人の作曲家と7台の鍵盤楽器で編まれた新作『Fantasie』にアインシュタインのこの言葉を引いた。音楽語彙の連繋で〈伝言ゲーム〉のように多様な曲を結びつつ、バッハからシュニトケにいたる3世紀をめぐる旅を鮮やかに息づかせた。

ALEXANDER MELNIKOV 『ファンタジー~7人の作曲家、7種の鍵盤楽器による』 Harmonia Mundi/キングインターナショナル(2023)

 「どんな時代や様式の作品であれ、作曲家の音楽言語を理解することが最重要です。どのようにしてかは、実際に演奏するほかには言えませんよ。記譜というものもきわめて大きな問題です、およそ不正確きわまりないものだから」とメルニコフは語った。「楽譜はある種の枠組みにすぎない。作曲家の音楽言語を知悉して、それを道標に自分がしたいように表現すべきです。作曲家の自作自演の録音を聴いても、楽譜に書いたことを正確に表現してはいない演奏がほとんど。ビートルズの新曲“Now And Then”をどう思いました? とても興味深いし、ともかくも4人が揃って演奏していることに、驚くほど感情的な力を感じますよね。それでも、なにかがかつてとは違ってしまう。いい曲で、とても好きなのだけれど」。

 新作の大半は、自ら所有する楽器で演奏した。2021年にトッパンホールでも4台の楽器で多様な幻想曲を見事に弾き分けていたが、それを拡充するコンセプトで22年7月に録音されたものだ。「モスクワ音楽院時代からずっと温めてきたアイディアでしたが、こうしたことには膨大な研鑽と努力が要ります。パンデミックがきて、時間と情熱と心血を注ぎ、なんとかチェンバロ演奏のまねごとができるように努めました」。

 各楽器での響きの空間の扱いも含め、忘れ難い達成となった。「いや、忘れたほうがいいものですよ」とメルニコフは笑う。「問題はですね、演奏会で弾き出した当初はひどい出来で、だんだんと馴染んでいき、録音もして、いい演奏ができるようになると、私は興味を失くしてしまう。それはもはやチャレンジではなくなったから」。

 室内楽ではシューマンの四重奏曲と五重奏曲を、ファウスト、シュライバー、タメスティ、ケラスとの「しあわせな共演」で昨秋にリリース。「アカデミックな音楽を失ったなら、私たちは多くのものを失います。それはシリアスで、愛や怖れ、悲劇について、他の芸術にはない直接性をもって人々の内面に働きかけるものだから」。

 3月にはリサイタルでの再会が待たれる。「ええ。もし私たちの文明社会がまだ存続していたならば」とメルニコフは力なく言った。

 


LIVE INFORMATION
アレクサンドル・メルニコフ ピアノリサイタル

2024年3月13日(水)トッパンホール
開場/開演:18:30/19:00
https://www.toppanhall.com/concert/detail/202403131900.html

読響マチネーシリーズ
2024年3月16日(土)・17日(日)東京芸術劇場 コンサートホール
開場/開演:13:00/14:00
ベートーヴェン(ピアノ協奏曲第5番“皇帝”)
出演:マリー・ジャコ(指揮)/アレクサンドル・メルニコフ(ピアノ)
https://yomikyo.or.jp/