こんな批評を待っていた 音楽表現の現在をめぐるエッセイ集
本書は、現代音楽を専門とする音楽学者である沼野雄司による、「レコード芸術」誌における連載を、「大幅な加筆修正を施し」単行本化したものである。2022年4月から、同誌が惜しまれながらも休刊した2023年7月までに掲載されたエッセイが元になっているが、それらの順序を再構成した上、存続呼びかけ人のひとりだった舩木篤也との居酒屋での対談を追加したものとなっている。対談の冒頭(つまみのおすすめなどが語られた後)、話題となっているのが、音楽批評について、その評判の悪さや、批評とはなんであるのか、といったことである。批評や評論の位置付けやその重要さは、それぞれのジャンルによって異なるのかもしれないし、特に音楽評論だけが評判が悪いという訳ではないと思うが、沼野にはこの連載を始めるにあたって、そのような問題意識があったということだろう。音盤評をメインとする雑誌である「レコード芸術」の連載ゆえかもしれないが、そもそもの批評が成立する場の問題も大きいだろう。また、芸術音楽と大衆音楽との線引きや、インターネット以後の批評の形態は、批評家としての領分や、そもそもの批評家という専門家の優位性とは何なのか、を問われる状況を生み出しているという。沼野はそこで自身の批評家としての優位性について、「音楽にかんして他人とは少し異なったアイディアで文章が書けること」であると言っている。
この本は、沼野のそんな「他人とは少し異なったアイディア」によるエッセイ集となっている。それは、現代音楽にとどまらない、現代の音楽文化をとりまく多種多様な表現から、「音楽表現の現在」を描き出すことだろう。本書を手に取り、目次を一瞥するだけで、「ああ、こういう批評があったらよかったと思ってたんだ」と、期待がふくらむ人もいるだろう。以前、海外のメディア・アートのフェスティヴァルで沼野に遭遇したことがある。本書でも触れられている、三輪眞弘らとの研究会を行なっていたころのことだったと思う。テクノロジーを使用して実現される音楽について、その別な分類項としてのメディア・アートについて、などを議論をしていた。本書でも、メディア・アートとも交差するところの多い、安野太郎、池田亮司、足立智美、松本祐一、渋谷慶一郎(登場順)といった音楽家が取り上げられている。さらに、沈黙をめぐるトピックでの、ヴァンデルヴァイザーや杉本拓と李禹煥、さらには、エクリチュールをめぐる、クセナキスと佐村河内守のような、音楽や美術やテクノロジーを横断していく視点など、読み物としてもとてもおもしろい。なにより沼野の博識ぶりに、その音楽を知らなくても、きっと聴いてみたくなるにちがいない。こうした批評スタイルは音楽批評についてだけ求められているものではないだろう。