PR
イベント&ライブ・レポート

「浜辺のアインシュタイン」の新たな伝説が始まる。フィリップ・グラスの前衛オペラが新制作上演、その記者会見をレポート

神奈川県民ホール開館50周年記念オペラシリーズVol.1 フィリップ・グラス/ロバート・ウィルソン『浜辺のアインシュタイン』

©Masanobu Nishino

ミニマル音楽の巨匠フィリップ・グラスと鬼才演出家ロバート・ウィルソンが、科学者アインシュタインを詩的に解釈しようと試みた前衛的なオペラ「浜辺のアインシュタイン」は、1976年の初演で観客の度肝を抜き、オペラの概念を変えた傑作として世界に知られることとなった。それから46年。音楽、ダンス、演劇はじめ、各界の俊英のコラボレーションにより、この伝説的な作品の日本での30年ぶりの上演、そして国内初の新制作上演に挑む。2022年秋、新たな伝説が始まる。

 なんということだ! これまでフィリップ・グラスのことをすっかり見誤っていた!

 という話は少し後にとっておこう。7月15日、神奈川県民ホールが「浜辺のアインシュタイン」を国内初新制作上演を行うというので、その記者会見に行ってきた。

 本作はフィリップ・グラスとロバート・ウィルソンの共同制作で1976年に発表されたコンテンポラリー・オペラ。動作、美術、言葉、音楽というオペラにおける4つの要素の組み合わせを大胆に再構築することで総合芸術としてのオペラの概念を塗り替え、後の「パフォーマンス」ブームの先鞭をつけた記念碑的大作だ。

 20世紀のもっとも偉大な物理学者アルベルト・アインシュタインの生涯や業績を元にしているのだが、台詞はあってもいわゆる物語はない。動作も音楽もミニマルで、パッと見には意味や脈絡がほぼ伝わってこない。当時のオペラファンはあっけにとられたことだろう。そんなんで、面白いの? 正直寝ちゃうね、ところどころ(笑)。でも退屈なのかというと、これが全然そうではないんだな、不思議なことに。

 作曲のフィリップ・グラスはミニマルミュージックの巨匠。演出のロバート・ウィルソンは画家、彫刻家、音響・照明デザイナーの顔ももつ実験的な演出家。総合芸術としてのオペラを再構築するには最高の組み合わせで、本作はふたりにとって出世作となった。

 歌詞が〈ドレミファソ、ドレミファソ〉〈1、2、3……〉とかなのには面食らうけれど、それとは別に台詞もあり、その書き手には自閉症だという当時10代の詩人、クリストファー・ノウルズなどが起用されている。このノウルズの詩がまた綴り間違いや文法の間違い、言い淀みなどが多い、かなりの難物だ(翻訳はクッツェーなどの訳業で知られる鴻巣友季子)。

 これを新たに制作するというけれど、いったいどうなるんだろう? ということで、記者会見の会場、神奈川県民ホールに赴いた。壇上には演出・振付の平原慎太郎と指揮のキハラ良尚が並び、リモートで神奈川県民ホール・音楽堂の芸術参与である音楽学者、沼野雄司が出演という顔ぶれ。

 会見冒頭で紹介されるのは、神奈川芸術文化財団芸術総監督を務める一柳慧が、「浜辺」初演時、パリ公演に駆けつけて「目と耳が幻惑されるかのような4時間の体験に衝撃を受けた」というエピソード。これを受け、沼野が一柳の「もうひとつ新しいクリエイティヴなものを」というリクエストから日本人による「浜辺」新制作というアイディアが生まれたと語る。

 東京オリンピック2020開閉会式振付ディレクターを務めた平原が「作品成立当時の時代背景を考えると現在と重なるところが多い。今の日本の状況に合った作品を作りたい」と抱負を述べると、キハラは本作の楽器編成の特異さを指摘しつつ、グラスが生み出す音の洪水へと観客をいざなう。

 それに続いて、主要キャストの松雪泰子、田中要次、中村祥子、辻彩奈からのメッセージが代読され、本作の宣伝美術のイラストを手がけた大友克洋から、「たまには海の絵を描こうと思った。久しぶりに絵を描いたので大変だった」というコメントが披露されると、場内は打ち解けた雰囲気に。

 質疑応答では、「浜辺」は物語と感情に満ちた現代においては反時代的な作品であって、むしろそこが面白いのでは、という指摘に対し、平原からは「感情的で、わかりやすくしなくてはいけないという日本の状況からは逸脱したものを作りたい」との力強い答えが。今回の新制作が「〈一部の繰り返しを省略したオリジナルバージョン〉」であることについては、キハラから、ところどころ繰り返しの回数を減らすが、グラス自身も省略したヴァージョンで演奏することはあり、またそれで音楽の魅力が失われることはないと語っているとの説明がされ、会見は無事終了。

 翌日は同じ会場でMETライブビューイング上映会が開かれ、グラス作曲の「アクナーテン」(1984)、「サティアグラハ」(1980)のメトロポリタン歌劇場公演のもようが上映された。「浜辺」とこの2作はグラスの「ポートレート3部作」と呼ばれている。前者は古代エジプトで一神教を導入したファラオの物語、後者はマハトマ・ガンジーの南アフリカ時代を描いた作品だ。

 変わった人選だなと思いつつ全編見てみたら、演出がウィルソンでないので雰囲気はずいぶん違うものの、いやこれがまいった! グラスがこんなに政治的な人だったとは! 差別、階級闘争、社会と個人、文字と権力。恥ずかしながら、グラスに対して抱いていたイメージが一変してしまった。うーん、「浜辺」もここから考え直さなくては……。

 従来「浜辺」のような意味のわかりにくい作品に対しては、そのイメージにひたって自由に解釈してもらえれば、といわれがちだったけれど、今回あらためていいたいのは、かといって意味がないわけじゃないよ、ってこと。ひとつの手がかりから意味をたどっていけば、それがいろんな別のヒントに繋がり、作品全体に網目のように張りめぐらされていることがわかってくる。そうするとめちゃくちゃ面白くなってくるんだな。読者の方にもぜひチャレンジしてみていただきたい。

 平原とキハラは、初演時のグラスとウィルソンとほぼ同年代。平原は「ダンスでしかないものをやる」(!)と意気ごんでいるとも聞く。今回の新制作版がこの作品のもつ厚みを担えるものになってくれるよう心から期待したい!

タグ