時代を超えていまも多大な影響力を誇る永遠のスーパー・ディーヴァ、ドナ・サマーが今年で世界デビューから50周年! 独自企画盤となるシングル集が届いたこの機会に、日本でも愛された〈ディスコの女王〉の輝かしい歴史を改めて振り返ってみよう!
世界デビューから50周年という区切りを知ってか知らずか、ドナ・サマーの周辺がまた賑やかになっているのは確かだ。カニエ・ウェスト&タイ・ダラー・サインが許可なく“I Feel Love”をネタ使いした“Good (Don’t Die)”を巡る騒動は記憶に新しいし、同ネタ使いでは少し前にビヨンセ“Summer Renaissance”(2022年)もあった。もっと大きい観点からの捉え直しという意味では、ドナの娘であるブルックリン・スダーノが共同監督したドキュメンタリー「Love To Love You, Donna Summer」やカサブランカ創設者のニール・ボガートを描いた伝記映画「Spinning Gold」も昨年公開されたし、さらには今年3月8日の国際女性デーに合わせたEP『Any Way At All』も配信されたばかりだ。
アンダーグラウンドなダンス・ミュージックと相互作用しながら互いをポピュラーに引き上げていったドナの功績は絶大で、大雑把に言えばマドンナやジャネット・ジャクソンの躍進におけるロール・モデルのひとりとなるし、カイリー・ミノーグやビヨンセ、レディ・ガガ、そしてそれ以降の多くのアーティストにとっての祖先と位置づけることもできる。当然ながらその影響は世界中に波及していて、日本でも彼女は〈ディスコの女王〉として70年代から愛されてきた。例えば“Hot Stuff”を聴いて何を思い出すかは世代によるとしても、どこかで彼女の歌声や楽曲を少しでも耳にしたことがあるという人は世代を問わず少なくないだろう。
てなわけで、このたび世界デビュー50周年の節目に、ドナの日本独自企画ベスト盤『Japanese Singles Collection -Greatest Hits-』が登場した。過去に日本で発表されたシングル44曲の最新リマスター音源を3枚のSHM-CDにコンパイルし、MV集のDVDをプラスした圧巻の4枚組。ディスコ黄金期の〈愛の誘惑〉〈愛のたわむれ〉をはじめとする世界的ヒットはもちろん、80年代を象徴する〈情熱物語〉、さらには90年代のオリジナル・アルバム未収曲、そしてブレイク前の〈恐怖の脅迫電話〉が収められているのもポイントだろう。当時の日本盤シングルの全ジャケットをリサイズして再現したアートワークも相まって、その時代ごとの空気を懐かしく、あるいは新鮮に追体験できるはずだ。
カサブランカでの華々しい成功
前置きが長くなったが、以降は彼女の濃密なキャリアを駆け足で振り返っておきたい。ドナ・サマーこと本名ラドンナ・アンドレア・ゲインズは、48年12月31日にマサチューセッツ州ボストンで生まれている。クリスチャンの家庭に育った彼女は、10歳の時に教会でパフォーマンスを経験。高校では校内のミュージカルで活躍し、卒業後はNYに移ってロック・バンドで活動するなど、最初から意欲は旺盛だった。ただ、レコード契約が叶わぬままバンドは解散し、機会を求めた彼女はミュージカル「ヘアー」のドイツ版オーディションに挑むことになる。そこで役を掴み、68年にミュンヘンへ移ったことが彼女の運命を永遠に変えた。
ドナ・ゲインズ名義での音盤デビューは、その「ヘアー」のキャストとしての“Wassermann”(“Aquarius”のドイツ語版)。ドイツ語をマスターした彼女はそこからミュージカル出演やモデル業、スタジオのバック・シンガーなどで忙しく働いている。その後はオーストリアのウィーンに移り、「Godspell」(72年)で共演した俳優のヘルムート・ゾマーと73年に結婚、同年に娘のミミを出産。転機はそんな頃に訪れた。ジョルジオ・モロダーが運営するミュンヘンのミュージックランド・スタジオでスリー・ドッグ・ナイトのセッションに参加した際、ドナはモロダーにシンガーとしての可能性を見い出され、彼のレーベル=オアシスと契約する。そうしてモロダーやピート・ベロッテと作り上げたデビュー・アルバム『Lady Of The Night』(74年)はオランダのグルーヴィーというレーベルを通じて欧州リリースされるが、その際に手違いで姓が〈Sommer〉ではなく〈Summer〉とスペルされ、ドナ・ゾマーはドナ・サマーになってしまった。なお、先述の〈恐怖の脅迫電話〉こと“The Hostage”はその初作に収録され、オランダやベルギーでTOP10入りを記録している。
そして翌75年に生まれたのが意欲的な問題作“Love To Love You Baby”だ。セルジュ・ゲンスブール“Je t’aime... moi non plus”に着想を得たという同曲は、シンセを駆使した実験的で妖しげなサウンドメイクに、喘ぎ声を全編に挿入するという煽情的な仕掛けを施したもの。全米進出を狙うモロダーから音源を送られたカサブランカ主宰のニール・ボガートは、ディスコ用に長いヴァージョンの制作を要請し、最終的にカサブランカと契約したドナは母国へ逆輸入的に上陸を果たす。その16分超の長いヴァージョンはボガートの読みが当たり、結果的にUSのディスコ・チャートで首位(総合2位/R&B3位)を獲得。初作ではソフト・ロック的な音楽性だったドナも、ディスコ時代を見据えたモロダーのサウンド進化に呼応し、怒涛のカサブランカ時代が幕を開ける。
華々しい成功の連なるカサブランカでは4曲の全米No.1を含む膨大なヒットが生まれたが、なかでもモロダー製〈ミュンヘン・サウンド〉の完成形となったのが“I Feel Love”(77年)だ。シンセとシーケンサーで組み立てたこの〈プロト・テクノ・ポップ〉は、当時ベルリンに滞在していたブライアン・イーノが〈この先15年のダンス音楽を変える〉と興奮するほど革新的なもので、これは全英1位/全米6位を記録している。また、78年にはジミー・ウェッブのバラードをディスコ解釈した“MacArthur Park”が初の全米No.1を獲得。同曲を含む『Live And More』も初の全米No.1に輝き、彼女はシングルとアルバムが同時に全米1位を獲得した初の女性アーティストとなった。
それ以上に大きな成功を収めたのが79年の金字塔『Bad Girls』だ。初めてミュンヘンではなくLA録音となった同作では意図的にロック色を強めるなど振り幅が広げられ、モロダーの新たな参謀ハロルド・フォルターメイヤーはギラついたリフが印象的な“Hot Stuff”を共作。また、ドナと80年に結婚するブルース・スダーノ(ブルックリン・ドリームズ)も〈Toot toot, hey, beep beep〉の号令で知られる“Bad Girls”などを共作して重要なブレーンになっている。それら2曲が全米1位に達したほか、ドナが一人で書いたソウルフルな“Dim All The Lights” などの重要曲を満載したアルバム自体も全米1位を獲得。勢いに乗ってベスト盤『On The Radio - Greatest Hits Volumes I & II』も全米チャートを制し、これにて彼女は3作連続で2枚組アルバムを全米1位に叩き込んだ初のアーティストとなった。