カリブ海に浮かぶ小国、ジャマイカに生まれ、わずか36歳でこの世を去ったレジェンドがスクリーンによみがえった。ジャマイカ発の音楽ジャンル、レゲエを世界に知らしめ、その一生を歌と闘いに捧げた男、ボブ・マーリー(1945~1981年)だ。映画のタイトルにも採られた“One Love / People Get Ready”のほか、“Get Up, Stand Up”、“No Woman, No Cry”、“War”など、短い生涯のあいだに数々の名曲を残した人物を映画「ボブ・マーリー:ONE LOVE」はどのように描いたのか? 来日した監督、レイナルド・マーカス・グリーンに話を聞いた。
ボブ・マーリーは私にとって〈Tシャツにプリントされた男〉だった
――映画「ボブ・マーリー:ONE LOVE」に関わるきっかけは? どうやって映画はスタートしたのですか?
「今回の話をもらったのは前作『ドリームプラン』(原題:King Richard)を終えたばかりで、監督としての注目度が高かったのでしょう。『ONE LOVE』の脚本を受け取ったとき、私は幸運な立場にいたと思う。すぐにボブの息子、ジギー・マーリーとスタジオ(パラマウント・ピクチャーズ)に会いました。それが、最初のステップです。
脚本には多くの作業が必要だったのでジギーらにリライトについて連絡し、『ドリームプラン』の脚本家、ザック・ベイリンの起用を提案しました。ザックは構成に長けているので、ボブの生きたどの時間帯を選べば、彼と周りの人々の人生をうまく描くことができるか、適格に判断してくれた。私たちは骨格づくりに多くの時間を費やし、舞台を1976~1978年に設定しました。もちろん、実際の出来事のニュアンスや人物描写に関してはボブの家族と話をし、リサーチを重ねてね。
1年かけて脚本を修正し、同時にボブを演じる俳優を探して、最終的にキングズリー(・ベン=アディル)を見つけることができたんです」
――設定された年に1977年が含まれているけど、これをジャマイカ、特にラスタの人たちは〈Two Sevens Clash(トゥー・セブンズ・クラッシュ)〉といいますよね。このことは後追いで勉強されたんですか? ここ、すごく重要なところです。
「はい、〈Two Sevens Clash〉※は、この映画を監督することが決まってから学びました(笑)。映画をつくりながら、本当にたくさんのことを学んだんです。私にとってのボブ・マーリーは、〈Tシャツにプリントされている男〉でしたから。もちろん、いくつかの曲は知っていたけれど、曲の意味やボブがいつどんな曲を歌ったか、プロデューサーが誰だったのかさえ知らなかった。彼の熱狂的ファンではなく、ただの初心者です。だからボブについて、すべて理解することを楽しみました。未知の人物を探るのは楽しい。まるで学校の課題で読書感想文を書くようなものです(笑)。
ボブを見れば、彼が明るい褐色の肌をもつ人物だとわかるけど、その歴史については知りませんでした(ボブ・マーリーの母は黒人で、父は白人)。父親が不在で、首都キングストン、トレンチタウンのストリートで暮らしていたことも知らなかった。妻のリタがボブにラスタファリアニズムを教えたこと、リタがどれほど彼の人生において重要だったのか。いつ銃撃に遭い、ロンドンに逃れて音楽を制作したのか。ザ・クラッシュを聴き、ロンドン滞在中の家でアルバム『Exodus』(1977年)を制作したことも。……こうした私が面白いと思ったことを、映画の中に詰め込みました。ボブのことを何も知らなかった自分には、とても新鮮なことだったんです」