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裸のラリーズ史上もっともパンクなライヴ録音は現代にどう響く?

 記録や情報の希少性ゆえに伝説的存在に祭り上げられていた時期もあったが、相次ぐリイシューも手伝って、裸のラリーズは若いリスナーにもフラットに聴かれている。以前から、モグワイやヨ・ラ・テンゴ、ゆらゆら帝国らと同列にラリーズを愉しむ人はいたが、いまならそこに、アニマル・コレクティヴやサンO)))、ディアハンターにモスなどの名前を加えてもいいだろう。

 また、ソニック・ユースの別プロジェクトであるSYRシリーズは、メジャーからは出せない実験と前衛の成果をアウトプットしてきたが、そこにもグレン・ブランカと並列にラリーズの影を見てとることも可能だ。

 今回発掘されたライヴ盤『屋根裏 YaneUra Sept. ’80』は、80年9月11日に行なわれた渋谷・屋根裏での演奏を卓アウトで記録されたもの。“氷の炎”“夜の収獲者たち”“夜、暗殺者の夜”“The Last One”から成っている。プレス・リリースに〈ラリーズ史上で最もパンクな音だと言ってもいいかもしれない〉とある。だが、筆者がまず感じ入ったのは、半年しか在籍しなかった山口冨士夫のギターがもたらす、焼け付くようなブルースの衝動である。村八分の一連の音源や山口のソロ・アルバム『ひまつぶし』(74年)を聴けばわかるように、彼の根っこにはブルースやロックンロールのDNAがある。それが本作では顕現化しているのだ。山口の存在はデカい。水谷孝と山口のソロの違いは一聴瞭然である。

裸のラリーズ 『屋根裏 YaneUra Sept. ’80』 The Last One Musique/Tuff Beats(2024)

 他に連想したのはマディ・ウォーターズの68年作『Electric Mud』である。マディがジミ・ヘンドリックスに接近したような問題作であり、その核には電化マイルスの音源で異彩を放っていたピート・コージー(ギター)らがいた。黒人音楽とラリーズが結びつくとは自分でも思っていなかったが、本作での彼らは、いや山口冨士夫は、ブルースや初期ロックンロールの何たるかを知り尽くしているとしか思えない。

 一方で本作は、〈ラリーズ=アヴァンギャルドな音楽、アンダーグラウンドな音楽〉という予断や憶見を吹き飛ばす。例えば、ヴォーカルの旋律は決してとっつきづらくない。“夜、暗殺者の夜”のキャッチーさはどうだろう。メロディーが浮かれている。音符が弾んでいる。コードの動きよりも音色によって曲を色付けしてゆく、という流儀は引き継がれているが、その色彩はより豊かで幅が広い。そんなイメージが湧き上がってくる。

 音質はかなり状態がいいのではないか。臨場感と緊迫感は他の発掘音源と較べても劣っておらず、奥行きと立体感のある音像が味わえる。ギターもベースもドラムもヴォーカルも輪郭はくっきりとしており、このアルバムがラリーズへの門戸を開いてもおかしくない。むろんファズ、ディストーションによるサウンドは軋みと唸りを上げているが、やはりここでもブルースが底流にあり、『Electric Mud』はもちろん、ジョン・スペンサー・ブルース・エクスプロージョンが好きなリスナーにも薦めたくなる。劈頭を飾る“氷の炎”のヴォーカルにかかった深いディレイが、虚空をたゆたうような効果を上げているのも見逃せない。

 また、〈ずぶずぶのサイケデリック〉というイメージも裏切るだろう。そもそも、本作の透徹したストイシズムと漆黒のリリシズム、昏い詩情に〈サイケ〉という形容は似つかわしくない。特に、フラワー・ムーヴメントに象徴されるサイケデリック/ヒッピー・カルチャーとの差異は歴然としている。サマー・オブ・ラヴが楽天的で熱を帯びた狂騒だとしたら、本作でのラリーズはひんやりとしたナイフで頬を撫でられているような不穏さと不気味さがある。

 棹尾を飾る“The Last One”は長尺のギター・ソロが聴かれるが、冗長なところはまったくない。水谷も山口も自己の出す音に陶酔するがゆえに延々と弾き続けてしまうのではない。意識を拡張する過程で自然と長くなってしまうのだ。グレイトフル・デッドやフィッシュがそうであるように、尺は伸縮自在であり、本作でも必然的な長さに落ち着いているという感触がある。

 さらには、延々と反復されるビートに、クラウトロック、あるいはヒップホップ的なループ感覚を見い出すこともできる、というのは牽強付会だろうか。主役は水谷と山口のヴォーカルやギターだが、それを下支えする髙田清博と野間幸道のリズム隊によるグルーヴは執拗な繰り返しによって巨大なうねりを生み出している。

 ラリーズを神棚に祭ることなく、数々の新譜と同列に聴くのに本作は恰好の入り口となるだろう。膨れ上がった神話や伝説を剥ぎ取って、こんなにも最高なロック・バンドがいたことを再確認しようではないか。それが今作の意義と意味であると断言して本稿を結びたい。