©O2 PRODUÇÕES ARTÍSTICAS E CINEMATOGRÁFICAS LTDA.

エリスとジョビンの初共演の裏側、名曲“三月の水”が生まれた瞬間の貴重な映像が今蘇る!

 このドキュメンタリーの冒頭、原題「Elis & Tom - Só Tinha De Ser Com Você」に続いて、エリス・レジーナとトム・ジョビンがスタジオの中で、“三月の水(Águas De Março)”を一緒に歌っている映像が流れる。何度目の歌入れか分からないが、2人はとてもリラックスした雰囲気でデュエットしている。やがてこの“三月の水”をバックに、スタジオ内での他の模様や、エリス一行が空港から宿泊先に向かうまでの車窓からの風景が流れる。すべて1974年にロサンゼルスで撮影されたものだ。

 本作は74年発表のアルバム『エリス&トム』の背景を、当時のレコード会社のスタッフやミュージシャンなどの証言も交えて浮かび上がらせたドキュメンタリー。ちなみに『エリス&トム』は、同年に『ばらに降る雨~アントニオ・カルロス・ジョビン/エリス・レジーナ・イン・LA』として日本盤LPが発売されたが、幕開けを飾る“三月の水”には“三月の雨(秋の流れ)”という邦題が付けられていた。また、同LPの内ジャケットには、エリスとトム、そしてエリスのパートナーで、アレンジャー兼キーボード奏者のセーザル・カマルゴ・マリアーノの3人が立ち話をしている写真などが掲載されている。

 74年、ブラジルで人気絶頂だった28歳のエリス・レジーナは、当時ロサンゼルス在住だった47歳のトム・ジョビンのもとを訪れ、2月22日から3月9日までアルバムを制作した。当時のフィリップスでは、自社の人気アーティストのデビュー10周年を記念したプロジェクトを実施するという習慣があり、それでエリスとジョビンの初共演という企画が生まれたのだ。

 同プロジェクトの模様は、数十時間分も16ミリフィルムによって記録されていた。カメラを回していたのは、エリスのマネージャーだったホベルト・ヂ・オリヴェイラ。その映像の一部は、アルバム『エリス&トム』発表時にブラジルのテレビで放映され、1999年にも25周年を記念して再放送された。が、未公開シーンを含むフィルムは、それからずっと倉庫に眠ったままだった。何故か? その理由を、セーザルは本作の中でこう述べている。

 「本当に色々なことがあったんだ。誰も知らないけどね」

 『エリス&トム』の制作から45年以上もの歳月が過ぎたある日、エリスの長男で音楽プロデューサーのジョアン・マルセロ・ボスコリは、このドキュメンタリーの企画を、監督のホベルト・デ・オリヴァイラに打診した。こうした過程を経て2022年に完成した本作は、翌23年にブラジルで公開され、24年には日本でも〈ブラジル映画祭2024〉で先行上映された。

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 当初エリス側としては、トム・ジョビンをスペシャル・ゲストとして迎え、ジョビン曲集を作るつもりだった。ところが、ジョビンは、レコーディング全体を自ら仕切るつもりだった。ジョビンは、エリスがセーザルを同行させていたことが気に入らず、旧知のクラウス・オガーマンをアレンジャーとして起用することを主張した。また、エレクトリックの楽器編成にも反対した。セーザルはこの時点ですでに10年近いキャリアを誇り、エリスの『Elis』(1972)を大ヒットに導いた。ただし、ジョビンよりも15歳年下で、キャリアも浅い。もしかしたらジョビンは、『Elis』に収録されている“三月の雨”のカヴァーの編曲を気に入ってなかったのかもしれない。ともあれ、こんな2人に挟まれる形で始まった『エリス&トム』のセッションは当初から緊迫し、日を追うごとに雰囲気はますます悪くなった。

 ジョアン・マルセロ・ボスコリいわく「『エリス&トム』は、スタンリー・キューブリック監督にとっての『ナポレオン』のように幻の作品になりかけた」。

 しかし、過程は明らかにされていないが、いつしか三者の関係は好転した。本作では、ジョビンが自身のメインパートであるピアノをセーザルに任せ、彼はギターを弾き、エリスが歌うといったリハーサルの風景も観ることができる。

 

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 本作には、エリスとジョビンが出会う前の、それぞれの音楽活動の映像が収められている。

 米国におけるジョビンの最高の瞬間を捉えた映像は、1967年にLAのTV局で収録されたフランク・シナトラのショーの模様だろう。このとき、シナトラはギターを手にした〈ボサノヴァの創始者〉ジョビンを紹介し、“イパネマの娘” を一緒に歌っている。2人は、オガーマンがオーケストラの指揮・編曲を手掛けたアルバム『Francis Albert Sinatra & Antonio Carlos Jobim』(1967)を作った仲だ。 最初から洗練されていたジョビンの音楽は、米国ではジャズ・シーンを中心に好意的に迎え入れられた。だが、一方、ブラジルの大衆にはあまり受け入れなかった。そして70年代に入ると、米国でもボサノヴァのブームが過ぎ去り、ジョビンは“過去の人”になりかけていた。

 対して、当時のエリスはブラジルの国民的歌手。『エリス&トム』は本格的な海外進出の試みであり、本作にはそれまでにフランスやイタリア、イギリスなどの欧州各国で溌剌と歌う彼女の姿も収められている。ただし、エリスには〈負い目〉もあった。彼女はブラジル軍事政権に反発を感じていたが、72年の陸軍オリンピックで歌ってしまったのだ。そのため反体制側のマスコミや文化人、ミュージシャン、そして国民から大きな怒りを買った。

 もとより歌手エリス・レジーナと、作曲家トム・ジョビンは、音楽的に相性が合う関係ではなかった。エリスは、『Elis Especial』(1968)でジョビンに捧げるメドレーを初録音している。が、彼女は60年代半ばからバーデン・パウエル=ヴィニシウス・ヂ・モライスのアフロ・サンバや、エドゥ・ロボをはじめとする同世代の新進シンガー・ソングライターの曲をレパートリーにして、時代の先端を行っていた。そもそもPimentinha(小さな唐辛子)という愛称で呼ばれていた彼女は、ピリッとした味わいで、キレキレでパンチのある歌唱力を誇っていた。そんなエリスと、余分なものを削ぎ落とした上で豊かなハーモニーを誇るジョビンのミニマリズムの相性は決して良いものではなかった。エリス自身はボサノヴァを歌が下手な歌手のもの、そして自分はジョビンが好きなタイプの歌手ではないと思っていたという。

 しかしながら、『エリス&トム』はブラジル音楽史に名を残す名盤である。

 僕はこの原稿を書くにあたって、もともと持っていたエリス・レジーナの「MPB Especial - 1973」(2004)とペドロ・アルモドバル監督の映画「トーク・トゥ・ハー」(2002)のDVDを見返した。前者は1973年にブラジルのTVで放送された特別番組を収録したもので、一部のモノクロ映像は本作にも収められている。スペインのアルモドバル監督は自分の映画の音楽にも一家言を持っているが、「トーク・トゥ・ハー」には『エリス&トム』から“ポル・トーダ・ミーニャ・ヴィーダ”を選曲。同曲が使用されているシーンも、本作で観ることができる。よってエリスと“ポル・トーダ・ミーニャ・ヴィーダ”には、以前にも増して魅せられた。

 『エリス&トム』を境にエリス・レジーナはヴォーカルをより研ぎ澄ませ、深みを増していった。それどころか、人生の深淵を覗いているかのような“闇”も感じさせた。そんな彼女は、82年にコカインとアルコールの過剰摂取が原因で、突然他界した。享年36。本作には、88年にジョビンがリオデジャネイロでエリスのことを振り返るインタヴュー映像が挿入されている。原題の中の“Só Tinha De Ser Com Você”は、〈あなたなしでは〉という意味。いま僕は、この言葉を深く噛み締めている。

 


エリス・レジーナ(Elis Regina)【1945-1982】
ポルト・アレグレ出身の歌手。10代の頃からラジオ番組で活動し、1965年に第1回ブラジル・ポピュラー音楽フェスティバルで優勝。〈ハリケーン〉という綽名を持つ彼女は、1960~70年代までブラジルの国民的スターとして人気を博した。1982年に薬のオーバードーズとアルコール中毒によって急逝。享年36。

 

トム・ジョビン(Antonio Carlos Jobim)【1927-1994】
リオデジャネイロ出身の作曲家。ボサノヴァの生みの親の一人と称されている。ピアノ奏者として活動を開始し、1959年に映画「黒いオルフェ」のサントラで注目を浴び、1960年代に“イパネマの娘”の大ヒットで世界的なスターとなる。エリスとデュエットした“三月の水”も人気曲。1994年に心臓発作で逝去。享年67。

 


寄稿者プロフィール
渡辺亨(わたなべ・とおる)

音楽評論家。2025年のベスト・アルバムを選出する時期が近づいてきました。結果は、各媒体での執筆やFM番組等で。

 


MOVIE INFORMATION
映画「エリス&トム ―ボサノヴァ名盤誕生秘話―」

監督:ホベルト・ヂ・オリヴェイラ、ジョム・トブ・アズレイ
出演:エリス・レジーナ/アントニオ・カルロス・ジョビン/パウロ・ブラガ ほか
配給:ディスクユニオン
(2022年|100分|ブラジル)
2026年3月6日(金)角川シネマ有楽町、YEBISU GARDEN CINEMA、アップリンク吉祥寺ほか全国順次ロードショー!
https://www.du-cinema.com/scmv08