「時間は取り返しがつかないものだから、大事にしなくてはいけない」と、児玉麻里が語っていたのは10年前、ベートーヴェンのピアノ・ソナタの全集録音に踏み込んだ時節だった。「ただ、音楽をしていると、タイムトリップみたいに時間を乗り越えられると思う」。
2003年1月から2013年2月まで、10年をかけて綿密な歩みを重ねてきたソナタの全曲録音が完結した。「印象深いですね。レコーディングをすることによって、発見がたくさんありました。ベートーヴェンは時代をつくった人ですよね。音楽だけでなく社会のことについてもヴィジョンがあった。みんなの友というか、ふつうの人たちのためのもの。人間愛に溢れ、自分の哲学や正義感が、32曲のソナタに濃縮されている。いまの時代でも通じる社会性をもつ作品が、少し身近に感じられるようになってきたかなと思います」。
かつてアラウの録音も手がけたプロデューサーのヴィルヘルム・ヘルヴェックが「自分にとっての鏡のように、疑問を投げかけ、哲学的な対話のパートナー」となった。「いっしょに探し、研究をしながら、前進していきました。全部を解体し、ひとつひとつをルーペで照らし合わせ、それをもう一度きれいに磨き上げ、全体を組み立て直した感じです。人類みんなの幸せを願う、温かみのある面が以前よりもよくみえてきました。ベートーヴェンの人生観には時代を超えたところがたくさんある気がします。パワーもいただいたし、ドビュッシーなど他の作曲家をみる目も違ってきた。冒険心のある曲ばかりで、すごくモダンな感じがしますし、それこそいまの時代に合っていると思います」。
フォルテピアノの演奏経験も含めて、考え抜いた成果が刻まれたマイルストーンとなった。「ベートーヴェンは本質的に男性的な作曲家なので、音色よりもまず、音のキャラクターの表現で変化を出すことが私にとってチャレンジでしたし、もしかしたらこの10年間で進歩した点かも知れません」。エベレストに登るような思い、と以前は語っていたが? 「ほんとうに実現したとは、実感が湧かないです。これからも人生をともにしていくレパートリー。終わりはないので」。
ベートーヴェン探求に関しては、ケント・ナガノ指揮ベルリン・ドイツ交響楽団との協奏曲全集もベルリン・クラシックスから発表されたばかり。ペンタトーンでのソロ次作では、ドイツ音楽の小曲集が計画されている。いずれドビュッシーの録音も心待ちにしたい。
さて、もしべートーヴェン本人に会えたら? 「作品解釈はもちろんですが、べートーヴェンのヴィジョン、アイディア、哲学について、いろいろ質問をすると思います。いまの世界情勢をどうみますか?とか(笑い)」。