東京に来て衝撃的だったのは、TVにたかじんが出てこないことだった……とまで言うと流石に嘘だが、ここまで東西における認知と人気に差がある人もそうはいないのではないか。大阪を拠点に関西では絶対的な存在として君臨してきたやしきたかじん。今年1月に亡くなった彼は、毒舌も織り交ぜたトーク力と味のあるキャラが愛され、関西を中心にTVやラジオで活躍。その現役生活を通じて視聴率男としての揺るぎない地位を守り続けたが、一方で本業の歌手としても思い出深い楽曲を残したことを忘れてはならない。
49年に大阪で生まれたやしきたかじん(本名・家鋪隆仁)は、高校生の時に作曲を始め、家を出て大学に進むと祇園のクラブでピアノとギターの弾き語りを始めている。71年には自作の“娼婦和子”で京都レコードからデビューするも、レコードはすぐ発禁となり、仕切り直しての再デビューはベルウッドと契約後の76年まで待たねばならなかった。
同世代のシンガーとしては谷村新司や河島英五らが挙げられるが、そうした面々と比べてもいわゆる洋楽的なものへの憧れをほぼ表面化させていないのがたかじんの特徴だろう。日本のフォーク〜ニューミュージックと近い界隈から登場しながら、〈作詞しないシンガー・ソングライター〉という独特のスタンスを取った彼にとって、歌とは個人のメッセージの発露ではなく、大衆のために存在するものだという意識が強かったのかもしれない(そのぶん歌詞の内容に厳しかったというのも有名だ)。
拠点を移していた東京から大阪に戻った83年にはビクターに移籍。そこでの最初のアルバム『CATCH ME』(84年)は全曲で林哲司や馬飼野康二ら作曲家を起用(これ以降の自作曲はほぼセルフ・カヴァーのみとなる)、女性目線で未練や恋情を歌うムーディーな盛り場歌謡へと転じていく。そして86年に“やっぱ好きやねん”のヒットが生まれた〈その時〉、現在にまで至るたかじんのイメージが構築され、後のつんく♂や関ジャニ∞にも繋がる、人情味豊かな〈大阪の歌〉の在りようも更新されたのだった。
92年のポリスター移籍後も森雪之丞や及川眠子ら新たな作家を起用しながら人情アダルト路線を続け、93年には“東京”がこの時期最大のヒット(オリコン52位)を記録。が、途中に休業も挿んでの歌手活動はタレントとしてのステイタスの高さに忙殺され、ライヴも02年末が最後となる。そして、旧知の秋元康・小室哲哉の詞曲による7年ぶりのシングル“その時の空”(10年)は、結果的に最後のレコーディングとなった。同曲の堂々たる歌いっぷりを聴くと、たかじんの大衆的なキャラクターの魅力が、その歌唱にも宿っていたことを改めて痛感させられるだろう。