日本の音楽史にその名を刻んだアーティストのドラマ

 デビューから数年で華々しく解散し、その瞬間最大風速の高さゆえに伝説となったキャロル。当然リアルタイムでの活躍に触れたことはなくとも、現在も第一線で輝いている矢沢永吉を輩出したバンドとして、名前ぐらいは多くの人が知っているはずだ。一方、その相棒だったジョニー大倉の功績はどれだけ伝わっているだろう。少なくとも、彼の閃きがその後の音楽シーンに絶大な影響を与えていることは、もっと知られていいはずだ。

 キャロルでギター/ヴォーカルと(主に)作詞を担当したジョニー大倉こと大倉洋一(本名は朴雲煥)は、52年に神奈川で生まれている。矢沢永吉のメンバー募集に応じる形で出会い、72年にキャロルを結成。ロック=長髪というイメージのあった当時、ハンブルク時代のビートルズを参照した〈革ジャンにリーゼント〉というヴィジュアルを発案したのはジョニーだという。不良性を匂わせた視覚的な鮮烈さがキャロルのデビューに凄まじい勢いをもたらしたのは疑いない。また、当初から自作のナンバーを揃えていた矢沢の曲に詞をつけるにあたって、語感とノリを優先して日本語と英語をミックスしたのはジョニーであった。〈ロックに日本語は乗るのか?〉という論争すらあった時代に、コロンブスの卵的な発想をジョニーが持ち込んだ〈その時〉、キャロル(というか日本のロック)が先鋭的なカッコ良さと大衆性を両立するうえでの大きな柱が生まれたのである。

【参考動画】ジョニー大倉によるキャロル・メドレー

 

 75年のキャロル解散後、本名で映画「異邦人の河」に主演したジョニーは、その主題歌でソロ歌手としてデビュー。76年のファースト・アルバム『JOHNNY COOL』からコンスタントにリリースを開始する。キャロル時代からリードを取ることもあったジョニーだが、ソロでも甘い歌声を活かして独自のロックンロールを追求していく。77年には日本のソロ・ロック歌手として2人目となる武道館公演を敢行(5日違いで先に公演していたのが、まさに矢沢である)。並行して山口百恵や中原理恵らへの楽曲提供も行い、78年のビクター移籍後はメロウ・サイドにも開眼し、阿久悠や後藤次利とのコラボも通じて音楽性の幅を広げていった。

【参考動画】ジョニー大倉の76年作『JOHNNY COOL』収録曲“一粒の涙(ピエロの歌)”

 

 80年代は日本アカデミー賞の優秀助演男優賞を受賞した「遠雷」(81年)をはじめ、「戦場のメリークリスマス」(83年)などの映画を中心に、俳優としての活躍が目立つようになっていく。89年にはかつて後見したTROUBLEの高橋ジョージや元キャロルの内海利勝らとTHE PLEASEを組み、改めてバンド・サウンドを追求。その解散後もマイペースに活動を続けていくが……14年11月に永眠。晩年は過去への愛憎を垣間見せる機会も多かったが、それもジョニーの人間味だろう。最期まで貫かれたロックンロールへの愛は、まず今回のベスト盤から辿っていただきたい。