アーカイヴ化された音楽とその風景

 僕がビートルズを聴き始めてすぐにジョン・レノンは死んでしまった。その時、とうにレノンはビートルズのメンバーではなかったし、ビートルズの音楽は、自分が生まれる前、生まれた頃に録音されたものであり、そのバンドはすでに解散していた。しかし、僕はビートルズを現在聴く音楽として受容してもいたのだ。

 このようなことは、僕くらいの歳のロック・リスナーなら当然のように体験しているだろう。デイヴィッド・グラブスも同じようにして最初はビートルズやローリング・ストーンズといったロックと出会った。そして、1979年、彼が12歳のときに読んだ、クラッシュギャング・オブ・フォーP.I.L.といったグループのレビューが、彼に同時代の音楽の存在を知らしめた。それは「啓示」のようなものだったという。そうして、いままさに起こりつつある同時代の音楽に接し、当時のアンダーグラウンドな動向やローカルなシーンに自ら参加するようになった。

DAVID GRUBBS,若尾裕 レコードは風景をだいなしにする ジョン・ケージと録音物たち フィルムアート社(2015)

 『レコードは風景をだいなしにする――ジョン・ケージと録音物たち』は、バストロガスター・デル・ソルといったバンドを経て、現在ではソロ・アーティストとして、また大学で教鞭もとるグラブスによる初の単著となる音楽論集である。書名は、ケージがダニエル・シャルルにレコードを「絵葉書」以上の意味をなさないものであり、「風景をだいなしにする」ものであると言ったことに由来する。

 それは「1960年代の実験音楽の歴史の本というだけではなく、50年後における60年代の実験音楽の聴取についての記述」である。音楽は演奏されたその時間、場所に存在していると考え、録音された音楽を、ほんとうの体験を損なった、あくまでも二次的なものにすぎないと考えていた、ジョン・ケージ、デレク・ベイリーAMM、といった音楽家たちを中心に、録音物によって開かれた聴取文化が存在するにもかかわらず、なぜ60年代の実験音楽や前衛音楽や即興音楽のアーティストは録音に対して極端なまでに否定的な態度をとったのか、それが本書におけるグラブスの主たる関心である。

 対して、現在では、録音を通じてリスナーが新しいコンテクストを再創造することができる。それを可能にしたものが、ほぼ同じ音楽体験をいつでもどこでももたらしてくれるレコードというものだ。たしかに、僕たちはそうした録音物に媒介されて過去の音楽を享受することができ、そこからさらに未知の音楽を発見したり、ある音楽に新たな意味を再発見したりして、過去の音楽を現在に反映させてきた。

 本書の第一章「ラジオから流れるヘンリー・フリント」に書かれているように、現在では、前衛音楽も大衆音楽もみな一緒に聴かれることは自然なことである。それが録音技術と複製媒体の流通による音楽の平等化がひき起した変化だ。また、ある過去の音楽を録音によって現在において知ることは、それが当時聴かれていた状況とは異なる文脈でそれを聴くことである。それは過去の音楽に別な意味を付け加えることにもなる。

 「フリントは、60年代には名前は知られていましたが、当時は誰も彼のレコードを聴かなかった。30年後に、65年当時、このレコードには意味があったと想像するのは、特別な経験であり、幻想に過ぎません」

 グラブスは、「録音された“今”と、それを聴いている“今”」という、二つの「現在」を考えることを通じて、現在と60年代の聴取文化を比較し、現在のデジタル環境における音楽のアーカイヴ化と重ねあわせてみせる。

 たとえば、グレン・グールドが1966年に発表した論文「レコーディングの将来」の中で、リスナーが演奏家の録音を自由に組み合わせる参加者となることを提唱した。それは録音テクノロジーに対する反応としてケージと対をなすものだ。

 「グールドは、録音によってライヴ・パフォーマンスがなくなると予言しましたが、それははずれました。しかし、彼が正しかったのは、テクノロジーは、リスナーが積極的に音楽の聴取経験を構築するのに大きな役割を果たすだろう、ということです」

 現在では、iTunesのプレイリストのように、アルバムの構成を無視してそれぞれの曲順で楽しむことができるし、リミックスやマッシュアップのようなことも無料のソフトウェアを使って簡単にできるようになっている。

 「そうしたことは、いまではティーンエイジャーがやるようなものになっているのです」

 そして、現在のネット環境における音楽のアーカイヴ化にいたるまで、本書は、録音というテクノロジーをめぐる音楽、聴取、体験の変化、再解釈可能性などが考察された刺激的な論考集となっている。

ガスター・デル・ソルの98年作『Camoufleur』収録曲“Black Horse”