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Photo by Yoko Hiramatsu
 

海外での過酷な日々を経て、本当の居場所を見つけることができた

――すごく基本的なことをお訊きしますが、なぜそこまで自分たちの音楽が受け入れられたのだと思います?

「たぶん転機は2003年にテンポラリー・レジデンスというNYのレーベルと契約した時だと思うんです。海外にはテンポラリー・レジデンスとかタッチ&ゴーマタドール4ADといったインディペンデント・レーベルのサークルがある。ブッキング・エージェントもレーベルも一緒になって、メジャーでは絶対できないことをやりながら、ビジネスとして成功するためのコミュニティーがあるんですね。お互いにサポートし合って意見を交わしながら、10年~20年のタームでプランを立てながら進めていけるような、世界中に広がるひとつのコミュニティーになっている。それで、2003年にジェレミー(・ディヴァイン)というテンポラリー・レジデンスのオーナーと契約したことで、スティーヴ・アルビニとの出会いをはじめ一気に世界が広がった。それまで僕らはどのシーンにも所属してなかったけど、そのコミュニティーに入れたからこそ、いまの僕らがあると思っています。そういうコミュ二ティーが唯一ないのがアジアなんですよね。アメリカもヨーロッパもオセアニアもひとつの世界で繋がっているのに、アジアだけがない。アジアってまったく別のものだから」

『Requiem For Hell』のリリースを記念したドキュメンタリー映像〈Journey Through Hell〉。ジェレミー・ディヴァインやスティーヴ・アルビニなどがMONOについて語っている
 

――テンポラリー・レジデンスのオーナーが、そのコミュニティーにMONOを受け入れる決断を下したのは、どういう決め手が?

「僕らはまったく無名の状態でNYに行き、ステージもない、マイクもないようなところからアメリカ・ツアーを始めたんです。最初はNYのジョン・ゾーンのレーベル、ザディックと契約したんですけど、作品をリリースしても、プロモーションなどまったくしてもらえなかった。そんな状態で3年間、ひたすらアメリカをツアーして回ったんです。まだインターネットもGPSも英語力もなかった頃で、4人だけでひたすら3年間回った。それで徐々に口コミで広がって、そこからですよ。ジェレミーも評判を聞いてライヴに来てくれて、泊まっていけよと言ってくれて。そこからどんどん広がっていったんです。〈今度MONOがそっちに行くから世話してやってくれ〉とか各地の仲間に声を掛けてくれて。それで、僕たちも日本でレーベルをやっていたので、アメリカのバンドの日本ツアーをブッキングしたり、レーベルからCDを出したりとサポートしました。エクスプロージョンズ・イン・ザ・スカイのメンバーを僕の家に泊めたこともあったし」

――お互いサポートし合って、信頼関係を深めていった。

「僕らは本当に小さなバンドだったから、最初は何の信頼もないんですよ。だから、アメリカのバンド以上にツアーをやって〈動員力もあるぜ〉というのを見せなきゃいけない。アメリカのバンドにもできないことをやらなきゃ、認めてもらえないですからね」

――初期のアメリカ・ツアーは過酷なものだったようですね。

「そうですね。僕は10代から日本の音楽業界で仕事してきて、2度メジャー・デビューして、あらゆることを体験してきた。でも20代の終わりになって、自分が思い描いていた音楽とかけ離れていたことに気付いたんです。あれだけミュージシャンになりたかったのに、リクエストに応えるだけの活動しかやってない。やれタイアップだの、お笑いの人との絡みだの、人の要請に応えながら曲を作るだけの毎日で。ミュージシャンではなくサラリーマンみたいな気分だった。あんなに愛してやまなかった音楽が嫌いになっちゃいそうで、20代の終わりに、もう音楽を辞めようかと思ったんです。これ以上音楽に嘘をついたり、失礼なことはしたくなかったから。でももしかしたら、小さい頃からの夢だった海外に、自分の求めている〈本当の音楽の場所〉があるのかもしれないと考えたんです。それを自分の目で確かめて、なかったら辞めようと。それでMONOを結成して海外に出るんですけど、3年間の過酷な日々を経て、本当に居場所を見つけることができた。それが18年経ったいまもバンドを続けられている理由だと思います」

――その過酷な3年間を経て、何が変わりましたか。

「居場所探しの旅だったんですよ。自分がどう生きていくのかを探す旅。でも日本では演奏する場所さえなかった。MONOにはシンガーがいないから。99年から2000年ぐらいの日本ではギター・ロックも流行ってなかったし、ましてやインストゥルメンタルでは、下北沢あたりの小さなライヴハウスでもブッキングできないと断られて」

――対バンが組めないってことですね。

「そうそう。だから海外でやるしかなかった。その頃は怒りと孤独と居場所探しで、とにかく不安でした。特に9.11以降は、息が詰まるような重苦しさがありましたね。MONOとしての最初の2~3作は、遠くにちょっとだけ見える光を頼りに作ってきました。そのあと、2003年に(テキサス州)オースティンのEmo’sという小さなヴェニューでライヴをやった時、300人ぐらいのお客さん全員が両手を挙げて大歓声を送ってくれたんですよ。その瞬間に初めて、長年抱えていた闇に光りが射したような気持ちになれましたね。あんな嬉しさはなかった。それがターニング・ポイントで、9.11以来の殺伐としていた気分がなくなって、感謝の気持ちが生まれたんですよ。アメリカでやってきて良かったと心から思えた。それまでの3年の経験がすべて糧になった。その時の経験をもとに“Halcyon (Beautiful Days)”を作曲しました」

――2004年のアルバム『Walking Cloud and Deep Red Sky, Flag Fluttered and the Sun Shined』に収録されていますね。

“Halcyon (Beautiful Days)”のライヴ映像
 

「そのへんから世界と調和が取れるようになってきた。それまでは、とにかく大きなノイズを出せばいいと思っていたけど、ちゃんと音楽の中にメッセージを込めて、世界の人たちとシェアするにはどうすればいいのかを、考えるようになったんです。ミュージシャンのやることなんて、いい曲を書いて、いいライヴをやるぐらいじゃないですか。それを一人でも多くのお客さんに聴いてもらい、世界中の人たちとシェアしてみたいと願う。きっとそれは誰もが願うことだと思うんです」

――そうですね。

「作曲って、自分の心の中に降りていく作業なんです。心の深淵に降りていって、狂気にも近い暗闇のなかから、光り輝く魂のようなものを引っ張り上げて曲にしていく。僕が僕であるために。僕自身が曲を書くことで救われるんです。僕は生きていていいんだと。僕が僕であり続ける理由はちゃんとあるんだと。そうして僕が救われた感覚を曲にすることで、必ず世界の人々と共鳴できるという感覚があるんです」

――なるほど。

「僕ら全員、すごいテクニシャンというわけでも、音楽的な教養があるわけでも、飛び抜けた才能があるわけでもないのに、これだけ多くの人たちと音楽をシェアできたのは、誰もが抱えている闇の部分に触れることができたからだと思うんです。それはすごくしんどい作業だけど、でもそういう作業を経た僕が書く曲は、必ず世界の人たちと共鳴できるという自負がありますね」

――インストの曲でも、いや、インストだからこそ、その歌心が世界中のさまざまな人々の心の琴線に触れる。

「そうかもしれないですね。アメリカでは男が人前で泣くことは恥ずかしいこととされるんですが、僕らのライヴではみんなが泣いている。僕は島根県出雲市の出身なんですが、ど田舎だけどすごくキレイな所なんです。僕は子供の頃から出雲の美しい景色をずっと見てきた。そういうものがMONOの曲に表れていると思うんです。僕は人を泣かすためではなく、自分が自分であるために曲を書いてるんだけど、そういうふうにアメリカの人にも伝わるんだなと」

――島根の日本海の美しさが、MONOの音を通じてアメリカの人にも響く。

「はい。それは大きな可能性だと思うし、ヨーロッパにもアメリカにもない、日本ならではのオリジナルだと思うんです。アメリカ人もイギリス人も、欲しているのは母国にないもの。だから僕らの音楽は求められているんじゃないかな。絶対にアメリカ人には書けない、イギリス人には想像しえない音楽をやっているからこそ、僕らは評価されているんだと思う」