シンガー・ソングライターの吉田省念が、昨年リリースの『黄金の館』から約1年半のスパンで、新作『桃源郷』を完成させた。くるり脱退後の初ソロ・リリースだった前作までの、いかにもマイペースと見えたスタンスとは裏腹に、吉田は〈40歳までは毎年アルバムを1枚リリースしていきたい〉と語った。それでいて、思ったことをどんどん出すというようなテンションではなく、きちんと練りこまれたうえで、表現としてのポップな広さをますます増したアルバムの内容にも唸らされる。

日本を代表する現代美術家であった父、ヨシダミノルの交友関係から元・村八分のチャー坊にギターを渡されたこと、バンドよりも宅録に打ち込んでいた20代のこと、くるりのことをほとんど知らない状態で加入し活動を共にした時期のこと、そして今、父のアトリエを改造した自宅スタジオで生み出される音楽のこと。京都という土地に足を着けながら生きる彼の音楽人生においての、いくつかのキーワードを入り口に、生い立ちから新作へと至るいろいろな話をロング・インタヴューで紐解いてみた。

吉田省念 『桃源郷』 Pヴァイン(2017)

 

父、村八分、ゆらゆら帝国、裸のラリーズ……省念少年を形作った数々のアーティスト

――前作『黄金の館』から約1年半での新作リリースというスパンは、それまでの吉田さんのマイペースに見えた活動からすると、急に早まったという感じもありますが。

「そうですね。(2013年に)くるりを退いて、1人で音楽活動をもう一度やっていくうえで、すぐには『黄金の館』に行けなかったんですね。35歳のときに〈もし今から年に1枚ずつ作るんであれば40歳までに5枚作れるな〉と思って、それを目標にしていたところはありました」

――現代のアーティストとしては、年1枚というのはわりとペース設定が早いですよね。

「でも、それはやり方次第だと思うんです。まあ、今は強がりでそう言ってるだけで、急にスランプに陥るかもしれませんが(笑)、できることはやってみようかなという気持ちです」

――もっと言うと、その年ごとの自分を記録してゆくことに興味がある、とも言えますか?

「そうですね。残りわずかな30代を記録して、それをもって40代に臨みたいなというのはあります。父(現代美術作家のヨシダミノル)が2010年に亡くなったんですけど、自分が今、スタジオにしてる実家が、父親が64年に建てたアトリエ兼自宅だったんですね。亡くなってからの7年間は、父の膨大な作品の整理をしながらもバンド活動や録音など諸々やってまして、ずらっと時系列で見れるようにしたりして。アーカイヴを作れたらなって」

――そうやってお父さんの作品を時系列で整理していることも、1年に1枚アルバムを作って、そのときの自分を残すというモチヴェーションになってるのかもしれませんね。表現する人は、その都度自分を記録しておきたいというタイプと、そういうものはあくまで下絵で完成品だけ見てもらいたいというタイプに分かれると思うんですが、吉田さんは前者なのかも。

「そうかもしれないです。そういう意味では、父親もそうだったかも。まあ自宅兼アトリエなので、僕らには日常的だったというのもあるんですが」

吉田省念の父・ヨシダミノル氏による朗読パフォーマンス(2009年「山水人2009」より)

――お父さんは70年代から京都で村八分のメンバーと交流があって、その縁もあって、やがてチャー坊さんのギターを吉田さんが10代の時期に借りるというエピソードがありますよね。

「父は70年から8年間NYに滞在してたんですが、その頃アメリカを放浪してたチャー坊がソーホーに遊びに来てたみたいです。僕がみなさんと会っていた頃は90年代で、村八分の人だという意識はしていました。2枚組(73年作『ライブ』)や『くたびれて』(71年のスタジオ録音を収録した91年作)を音源としては聴いていましたし。でも、グループとして家族と交流があったわけではなくて、チャー坊はプライヴェートで家に来ていたんですけどね。わりと落ち着いた素の姿というか、その人となりを見てました」

――具体的には、どんな感じで接してたんでしょうか?

「僕もまだ中学生だったし、そんなに深いところで接してたわけではないんです。チャー坊も若いころは激しかったという話を聞くんですけど、僕が見てた頃は晩年の姿で、トゲが取れていたというのはあります。だからパブリック・イメージとは少し違うかもしれない。ジョージ・ハリスンが亡くなる2年くらい前に、リバプールのピート・ベストのところに行って〈あのときはバンド(ビートルズ)をクビにしてごめんな〉って謝りに行ったっていう話があるじゃないですか。自分の一生をたどる時期というのがあって、もしかしたらチャー坊もそういう感じで父のところに来てたのかもしれないです。〈子供(省念)がギターやるなら、いいのを使ったほうが上手になるからこれ使えよ〉って貸してくれて、それから半年くらいで亡くなったので」

――それで、チャー坊の追悼ライヴで、あのギターを受け継いだ者として舞台に立つことになったわけですね。

「たまたまなんですけどね。今となれば運命的というか」

――村八分は、吉田さんが自分の音楽を日本語で作っていくうえでのバックボーンのひとつでもありますか?

「そうですね。当時は村八分とか、90年代の京都のシーンで活動してたちぇるしぃとかも聴いてました。はっぴいえんどや細野(晴臣)さんも今となっては大好きですけど、聴き始めたのは90年代後半からで。そこで、あらためて日本語の使い方、日本語の歌詞を意識するようになったんです」

2005年にリリースされた『村八分 BOX -LIMITED EDITION』のトレイラー映像
〈90年代の村八分〉とも呼ばれたちぇるしぃのライヴ映像

――ゆらゆら帝国の衝撃も大きかったそうですね。

「『3×3×3』(98年)の衝撃は、ものすごく大きかったですね。日本語の使い方やリズムがロックになじんでいるというのはなかなかできないし、カッコいいなと思いました」

――でも、そういうバンド・サウンドに感化されながら、吉田さん自身は宅録に向かっていったという。

「バンドもしていたんですけど、スタジオ作業というか、音源を作っていくということにも興味があったんです。当時、打ち込みをやってる友達にも出会うようになって、彼らが自分の部屋をアトリエにして音源を作れるというのを見て、すごくうらやましく感じたんです。なので〈じゃあ、(打ち込みではなく)生演奏で宅録やってみたらどうかな?〉と思って、ずっとやってました。打ち込みをゼロから学ぶより、生の音で宅録するほうが早かったんだと思います」

――当時、吉田さんがそういう音楽を作っていて、その作品が注目されたり、リリースの声がかかったり、ということはなかったんですか?

「今でいうZINEと18曲入りの音源を組み合わせたものを作って友達にあげたりはしてましたね。ただ音楽を作って楽しめればいいな、くらいの感じで」

――MySpaceに音源をアップしたりは?

「ぜんぜんしてなかったです。2000年代にやってたバンド〈すみれ患者〉は即興性の高いバンドでした。バンド募集のチラシで集まるような仲間ではなく、話のできる仲間で集まって。(裸の)ラリーズみたいな。SNSやネットで発信するというより、人伝で〈こんなやつおる〉みたいな広がり方が理想でした」

――ちょっと脱線しますが、ラリーズといえば、つい最近、Buzzfeed.comによど号で北朝鮮に渡った元メンバー、若林盛亮氏のロング・インタヴューがアップされて話題になりましたね。

「読みました! 生々しかったですね」

――それこそお父さんが60年代末の京都でラリーズを目撃したり、すれ違ったりしていたのかも。

「どうなんでしょうね、それはわからないです」