Mikikiによる〈髭15周年特集〉の第2弾は、アナーキーでロマンティストなフロントマン・須藤寿が15年の歴史を振り返るロング・インタヴューを前後編でお届けする。NUMBER GIRLやミッシェル・ガン・エレファントといったそれまで日本のトップを走っていたロック・バンドが相次いで解散し、その一方で〈ハイライン・レコーズ〉を中心に〈下北系〉と言われたバンドたちが頭角を現してきた2000年代初頭にあって、そのネーミングからして異色の存在感を放ってシーンに登場した髭。ツイン・ドラム編成の5人のメンバーがどのように集まり、サイケデリックな音楽性がいかに生まれ、インディーズからメジャーへと一気に駆け上がっていったのか。〈前編〉では14歳の須藤少年の音楽との出会いまで遡りながら、バンドのキャラクターが形作られて行った初期のヒストリーを追った。

★髭15周年特集Vol.1:髭・宮川トモユキ/斉藤祐樹/佐藤“コテイスイ”康一、新作を肴に語るロックンロールに囚われたバンドの〈核〉と現在地


 

〈下北系〉の中にあって、僕らはどこにも属せなかった

――今日は髭の15年の歴史を振り返っていただこうと思うのですが、最初に個人的な話からさせてもらうと、僕が髭のライヴを初めて観たのが2003年の下北沢GARAGEだったんです。インディーズ時代は下北沢のライヴハウスによく出ていましたよね?

「そうだね。SHELTER、Que、251とか、当時下北沢にあったライヴハウスはほぼ一通りやってるんじゃないかな。あとは渋谷の屋根裏、サイクロン、三軒茶屋HEAVEN’S DOOR、たまにイレギュラーに高円寺に行ったり」

――2000年代初頭の下北沢にはハイライン・レコーズがあって、いわゆる〈下北系〉のギター・ポップ/ロックに勢いがありましたよね。そんな中にあって、髭は異質な存在感があったように思うのですが、当時のシーンに対するカウンターのような意識があったのか、それとも、もっと自然に自分たちのやりたいことをやっていたのか、どちらが近いですか?

「カウンターとかは全然意識してなくて、当時から自分たちがやりたい曲しか書いてなかった。でもわかるよ、ハイラインの感じの人たちとは全然違ってて。でも、カウンターになろうと思ってたわけじゃなくて……どっちかっていうと、コンプレックスでもあったんだよね。〈みんなとやってること全然違うな〉〈どこにも属せない〉っていう、ほのかなコンプレックスはあった。どこかのムーヴメントに入っちゃったほうが楽じゃん?

全然チャンネル合わせらんないっていうか、合わせてみたいけど、何がいいのかわからないから合わせようがないなって。でも、そういうバンドからイヴェントに呼ばれることは多くて、〈何で俺たち呼ばれたんだろう?〉って思うこともあった」

 

太宰治と坂口安吾にハマった友達のいない大学一回生時代
ヴェルヴェッツとの出会いで獲得した、バンド独特のBPMとサイケデリア

――そもそも、須藤さんが音楽に夢中になるきっかけは、いつのどんな体験だったんですか?

「14歳のときにUNICORNを聴いたのが一番の核だと思う。〈夢で逢えたら〉のオープニングがサザンからUNICORNに変わって、“働く男”とか“スターな男”が流れて、かっこいいなって。〈バッハスタジオ〉っていうコーナーがあって、毎回バンドを呼ぶんだけど、そこにUNICORNも出てて、自分が今まで知ってたいわゆるポップ・ミュージックとは一線を画してたというか、〈これも音楽なんだ〉って思わせてくれるアナーキーさがあって、表現のスタイルとして〈バンドってクールだな〉って初めて思ったのがそのとき。

で、同じクラスだった宮川(トモユキ)くんに〈ベース弾いてみたら?〉って言って、初めてライヴをしたのが高1のとき。友達の学祭でUNICORNのコピーをしたんだけど、宮川くん恥ずかしくなっちゃって、視聴覚室のカーテンの影に隠れてベース弾いてた(笑)。ホントにシャイだったんだよ」

※ダウンタウンやウッチャンナンチャンらによる88年~91年に放送されたバラエティ番組。UNICORN やTHE BOOMら若手バンドも多数出演した

――逆に目立ちそうですけどね(笑)。

「目立ってた、目立ってた(笑)。懐かしいなあ。でも、最初のライヴはUNICORNのコピーだったけど、俺ギター持ったときからオリジナルを書いてたから、いろいろコピーしようって気にはならなくて……だからギター上手くなんないんだけど(笑)。当時からオリジナル志向で、それは性分なのかもだけど、作った楽曲を宮川くんがすぐに褒めてくれたんだよね。で、高3で水戸のライトハウスっていうライヴハウスに出て、それはオリジナルも混じってたと思う」

――宮川さんとは、その頃からずっと一緒に活動してるわけですか?

「宮川くんは大学進学で東京に行こうとしてたんだけど、俺は商業高校だったからすぐ就職するつもりで、これでバイバイだと思ってたの。でも、〈須藤はちゃんと音楽やったほうがいい。大学に行けば、4年間時間稼げるよ〉って言ってくれて、急に進路転換して、ギリギリで受験勉強を始めて。そろばんとかしかやってなかったのに、急に数学をやったり(笑)。〈受かるわけねえじゃん〉って感じだったんだけど、でも驚くべき集中力で、半年の勉強で受かっちゃったんだよね。そしたら、宮川くんと仲の良かった友達たちは全員落ちちゃったんだよ(笑)」

――えー!

「だから、一人だけ先に東京行くことになったんだけど、この友達のいない一年間が結構大きくて。この時期にものすごい映画を観たり、本を読んだりしたんだよね。それが自分の詞世界をかなり形成したと思ってて、いわゆる無頼派にハマったのがこの頃。太宰治とか坂口安吾にめちゃめちゃハマって、太宰とかは全部読破したんだけど、それと同時にニルヴァーナがキて。

東京で一人だったから、内向的な、ネガティヴなフィーリングにハマりやすかったんだろうね。ジョン・レノンも、18歳の自分にはそのマインドが刺激的だったり。あの期間は髭の詞世界を形作る上で相当大きかったと思う」

――太宰治の「人間失格」はいつの時代も表現者にとっての踏み絵ですよね。

「俺はものすごいどハマりした。18歳くらいで、〈俺あと何年生きられるんだろう?〉って思いながら生きてたもん。それくらい影響受けてた。

自分の感覚で言うと、あの人はコメディーが上手だと思ってて、『人間失格』もコメディーとしておもしろいものに見える。中学生の太宰がお父さんにサザエさんのカツオみたいな学生帽を買ってもらって、高島屋の全身ガラス張りの前で自分を見て、〈僕は自分にちょっと会釈をした〉っていう下りとか、あの微妙なニュアンスがすごくおもしろくて、笑っちゃうんだよなあ」

――〈悲劇と喜劇は隣りあわせ〉とも言いますもんね。じゃあ、その頃はバンドはやってなかったわけですか?

「うん、毎週末水戸に帰ってみんなと会ってたから、よく笑われてた(笑)。それくらい寂しかったんだよね。で、翌年いよいよ宮川くんが東京に来て、俺はサークルとかにも入ってなかったんだけど、宮川くんはすぐ入って、そこで出会ったのが斉藤(祐樹)くん。そこで彼らが髭の母体となるバンドを組んだんだよね。俺はそのバンドを学祭に観に行ったりしてたんだけど、3年生のときに宮川くんが〈ヴォーカルがやめるから、俺は須藤を推したい〉って言ってくれて、そこで〈バンドやりたい〉って気持ちを思い出して。昔書いてた曲のストックもあったし、〈今かな〉って。

で、初めて彼らの大学の地下にあるスタジオに行ったときに、先に当時のメンバー3人で音を鳴らしてるところに俺が後から行ったんだけど、扉を開けたら斉藤くんが、〈よし、これでミュージック・ステーションに出れるな!〉って言ったの(笑)」

――いきなりですか?

「こいつ頭おかしいやつだと思った(笑)。でも、斉藤くんはふざけてるわけじゃなくて、だからおもしろいの。そういう振り切れ方が斉藤くんは昔からある、そこに嘘がないからおもしろいんだよ。で、1年くらいは3人の書く詞と曲を歌ってたんだけど、宮川くんが〈こいついい曲書くんだよ〉って言ってくれて、それからあっという間に自分がイニシアティヴをとることになった。

で、そのときのドラマーが抜けるってなったときに、ちょうどここ(東京・渋谷SPACE SHOWER社)の隣のビルでバイトをしてたんだけど、そこにフィリポ(2014年2月まで在籍した川崎"フィリポ"裕利)が入ってきて。ジョーイ・ラモーンみたいな髪型で、革ジャン着て、〈何この人? 頭おかしいんじゃない?〉って思ったけど、彼はたくさん音楽を知ってて、いろいろ教えてくれたんだよね。昼は毎日青学にご飯食べに行ってたなあ。その流れで、〈ドラムが抜けるから、俺のバンドで叩きなよ〉って誘って、フィリポが入ることになった」

――その頃から『LOVE LOVE LOVE』や『Hello! My Friends』(共に2003年)に入ってるような曲をやりはじめたわけですか?

「いや、最初はそれ以前の楽曲。その前に、渋谷のラママでお昼のオーディション・ライヴに出て、ブッキングの人にめちゃめちゃ叩かれて、それまでの曲を全部捨てたんだよ。

要は〈中途半端だ〉みたいなことを言われて、でもそれは自分でもちょっと思ってて。ちょうど作曲もメキメキおもしろくなってきた頃だったから、言ってることもわかるなと思って、それまでの曲は全部捨てたんだけど、メンバーはビックリしてたね。……そのときくらいから、バンドを振り回すようになった(笑)。で、そこから書きはじめたのが『LOVE LOVE LOVE』や『Hello! My Friends』の頃の曲」

――一度それまでの曲を捨てて、新たに曲を作りはじめた中で、〈これが髭らしい曲なんじゃないか〉って、最初に手応えを感じたのはどの曲ですか?

「“白い薔薇が白い薔薇であるように”(2005年作『Thank you, Beatles』)かな。それまでは、ひとつのメイン・リフで楽曲を終わらせるよりは、妙に展開を作ってた気がして。あと、自分たちのBPMの好みがわりと遅いってことに気付いたんじゃないかな。100から120くらいの、速くも遅くもない感じ。初期は特に速い曲ってなくて、自分たちのサイケデリアみたいなものを掴みはじめたっていうか、自分たちの“Light My Fire”が書けた気がしたというか、そこらへんからチャンネルが大きく変わっていった」

――それこそ、下北の周りのバンドはもっと速かったでしょうね。

「で、キラキラしてたでしょ? その感じが自分にはあんまり馴染まなくて、嘘みたいに思えちゃった。その頃強烈に聴いてたのが、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの2枚目(68年作『White Light/White Heat』)とかで、“The Gift”とか“Sister Ray”とか、あのへんのBPMの、ドロッと狂気じみた感じが自分の中にフィットしてて。パティ・スミスとかドアーズとかも含めて、このへんが髭のベストなBPM、テンポ感なんじゃないかって、そこが核になっていった気がする。

その頃から不思議とお客さんが増えていって、それまで友人と俺たちのライヴだったのが、知らない人たちが来るようになって、上手くすべてがマッチしたというか、かみ合ったんだと思う」

ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの68年作『White Light/White Heat』収録曲“The Gift”

 

転機となった“ロックンロールと五人の囚人”とアイゴン(會田茂一)との出会い

――バンド名はいつ〈髭〉になったんですか?

「もともと〈CLOCKWORKS〉ってバンド名で、〈時計じかけのオレンジ〉から取ってたんだけど、俺はそのバンド名も気に入ってなかったの。〈真ん中取ってんな〉って(笑)。あ、それがさっき言った、曲を捨てたタイミングとイコールかも。曲を変えるなら、バンド名も変えようって言ったのかもしれない。

それで俺が〈髭〉って言ったんだけど、みんなぶっ飛んでたね。〈はあ?〉って。斉藤くんなんて始めはホント〈勘弁してよ〉って感じだった。〈俺ふざけたいんじゃないんだよ〉って。でも、斉藤くんはそこからがおもしろくて、〈髭か…………わかった〉って、理解がめっちゃ早いの(笑)」

――絵が浮かぶなあ(笑)。

「宮川くんは〈須藤が言うなら〉なんだよ。そのとき漢字一文字のバンドなんていなかったけど、〈髭の漢字がロゴみたいで絵的にもいいと思う。プリンスみたいでしょ?〉って言って。そうしたら、斉藤くんも〈……わかった〉って(笑)。髭はいつもそんな感じ。お世話になってた渋谷eggmanの店長にも〈髭に変えます〉って言ったら、〈え? 売れるの5年遅れるよ?〉って言われたけど(笑)」

――でも、実際にはそこからすぐにインディーズ・デビューが決まったわけですよね。

「当時THEATRE BROOKの(佐藤)タイジさんやWRENCHとかをやってた3rd Stone Recordsの社長のコバちゃん(小林由紀夫)に会ったのがきっかけ。SUPER JUNKY MONKEYのかわいしのぶさんがやってたBLUE MOVEeってバンドと対バンをしたときに、コバちゃんが見に来てて、〈明日事務所おいでよ〉って言ってくれて。そこからはめちゃめちゃ速かった」

――コテイスイさん(佐藤“コテイスイ”康一)に関しては、いつどのような流れでバンドに加わったのでしょうか?

「自分としてはコーラスとか鍵盤も入れたかったんだよね。UNICORNやドアーズの影響もあったのかな。で、下北の251やGARAGEでよく対バンしてたミディアムファインってバンドでコテがドラムをやってて、彼らが解散するっていうから、〈コーラスとかピアノできる?〉って聞いたら、〈できるよ〉って言ってて。パーカッションも欲しかったし、〈じゃあ、何でも屋として入りなよ〉と。そしたら、歌もピアノもできなかったの。〈簡単に嘘つくな、この人〉って思った(笑)。まあ、おもしろくていいやつなら大体友達になっちゃうから、それでラインナップが揃ったんだよ。

コテは最初は一応誰かから借りた小っちゃい鍵盤を持ってきてて、でも全然弾けないから、それがパーカッションになって、いつの間にかドラム・セットになり、それがツイン・ドラムの始まり。『LOVE LOVE LOVE』は4人で、『Hello! My Friends』の後半からコテが参加して、『Battle of My Generation』(2004年)が5人かな」

――そして、いよいよメジャー・デビューですね。

「SPEEDSTAR(ビクター)はホントにいいレーベルで、プレッシャーとかは全然なかった。『Thank you, Beatles』はそれまでの楽曲の編集盤みたいなもので、『I Love Rock n' Roll』(共に2005年)で新たに書いたのが“ブラッディ・マリー、気をつけろ!”とかだったわけだけど、それもおもしろいって言ってくれてたし」

――続くシングルの“ロックンロールと五人の囚人”、プロデューサーにアイゴンさん(會田茂一)を迎えたアルバム『PEANUTS FOREVER』(2006年)で、知名度が一気に広がりましたよね。

2006年のシングル“ロックンロールと五人の囚人”(『PEANUTS FOREVER』収録)
 

「プロデューサーの参加っていうのはビクターのアイデアだったんだけど、あのまま俺たちだけでセルフでやってたら、次で終わってたと思うんだよね。そのときのディレクターに〈まだ髭がやってないことがある。プロデューサーを呼んだことがない〉って言われて、いろんな人が通ってる道だし、俺も経験としてやってみたいと思って。

でも、人選は自分たちでやらせてくれて、アイゴンさんって提案したのは俺。直感みたいなものだったけど、NOAH(スタジオ)で小冊子を読んでて、ちょうど(木村)カエラちゃんの特集で、アイゴンさんも載ってて。“リルラリルハ”のときだったのかな? で、俺EL-MALOの大ファンだったから、〈アイゴンさんがいるじゃん!〉って」

――〈俺たちだけでやってたら、次で終わってた〉というのはどういう意味?

「アイゴンさんとの出会いはすごく大きくて……あれはホントに転機だったと思う。『PEANUTS FOREVER』は確実に髭の転機だったと思うから、そこに導いてくれたのは、プロデューサーの存在であり、ビクターであり、マネジメントだったり、あの頃出会った人たちが上手く絡んだんだよ。上手くいくときってきっとそういうことで、バンドだけでやってても違う未来があったとは思うけど……それはそれっていうかね」

――実際、アイゴンさんの参加によって、どんなことを得たと言えますか?

「それまでディレクターに急かされるのは怖いことではなくて、俺は俺のペースがあると思ってたんだけど、ミュージシャンの先輩に〈これ明日まで〉って言われると、初めて締め切りにビクビクして……〈できなくてもやる〉っていう感覚を覚えたのが2006年。アイゴンさんが〈締め切りまでに出来てなかったら、そのときの自分を即興で出してみなよ〉みたいなことを言ったんだよね。

それまでは曲も歌詞も自分の中で100点が出るまで人に見せたくなかったんだけど、〈須藤くんはもうモノになってるから、その場で即興で出せば大丈夫〉って言ってくれて、7割くらいのものを持ってって、残りの3割は現場で書くっていう……悪い癖とも言えるんだけど(笑)」

――アハハ(笑)。

「でも、〈そうなんだ〉って、あっさり信じちゃって、そこからインスピレーションで書く面白味を覚えて。習字で言うところの〈二度書きなし〉っていう、そのかっこよさも覚えた。たとえ後で後悔しても、それがそのときのベストだったんじゃないかって、アイゴンさんが教えてくれた気がする」

――それって、具体的にはどのあたりの曲に反映されていますか?

「“MR.アメリカ”(『PEANUTS FOREVER』)の〈何食べる?〉〈いつ眠る?〉とかは全部適当。当日に現場で〈おりゃー!〉みたいな(笑)。

その頃はフェスの出演とかスケジュール的に忙しくて、斉藤くんが作っていた“デーモン&サタン”(『PEANUTS FOREVER』)がなかなか出来上がらなかったんだけど、そろそろ他のメンバーも曲作りで自立したほうがいいと思って、〈歌詞も書いてみたら?〉って言ったの。最後のほうは新大久保のフリーダム・スタジオに缶詰めでやってて、俺は朝方に“MR.アメリカ”を書き上げて、斉藤くんのほうを見に行ったら、歌詞全然進んでなくて(笑)。あそこから歌詞は俺だけが書くようになっていったんだと思う(笑)」

――『PEANUTS FOREVER』収録の“せってん”は若いミュージシャンにも人気が高くて、以前対談をしたYogee New Wavesの角舘(健悟)くんも好きだって言ってたし、踊ってばかりの国の下津(光史)くんも好きだそうですね。

「あの曲は今回の『STRAWBERRY ANNIVERSARY』で言うと“きみの世界に花束を”と一緒で、曲と詞が一気に出てきたんだよね。アタマからサビまでツルッと流れで出来ちゃうときがあって、あれもスッと〈入った〉気がした。自宅で書いたときの雰囲気まで覚えてるし、ホント一筆書きって感じ」

――裏を返せば、須藤さんのメランコリックな部分やロマンチックな部分がストレートに反映された曲だと言えますよね。

「実は、“せってん”を書いたのは(約3年前の)『LOVE LOVE LOVE』のすぐ後だったんだよ。でもあまりにもあけすけで、恥ずかしい曲書いちゃったなって思って。メンバーはいい曲だって言ってくれたんだけど、“白い薔薇が白い薔薇であるように”とか“髭は赤、ベートーヴェンは黒”とかを歌ってたから、この曲は髭には合わないんじゃないかってずっと言ってたし、いつか自分がソロをやるときにやればいいと思ってて。それが『PEANUTS FOREVER』のときに入れることになったんだよね」

髭の新作『STRAWBERRY ANNIVERSARY』収録曲"きみの世界に花束を"
 

――恥ずかしいくらいの自分のパーソナリティーが反映されている曲だからこそ、世代を問わず、近い感覚を持った人に支持されてるのかなって。

「変な話だよね。よく考えたら、それが音楽なんだけどね。スッと出た、自分の恥みたいなものが音楽の醍醐味なのに、それを隠そうとしてたんだなって、今考えると変な話だなと。髭に対する〈こうあるべき〉っていう美学みたいなものが、若いから強かったのかもしれない。でも、“せってん”と、あと“君のあふれる音”(2005年作『I Love Rock n' Roll』)は、自分の内省的な感情を髭で解放していいんだって思わせてくれた2曲だね」

 

リアルを紡ぐより、夢のような絵空事を膨らませるのが髭

――また、自主イヴェント〈CLUB JASON〉がこの2006年にスタートしていますが、これは何かきっかけがあったのでしょうか?

「(ローリング・)ストーンズの〈ロックンロール・サーカス〉とか、ニール・ヤングの〈ラスト・ネヴァー・スリープス〉とか、ああいうステージが舞台みたいになってるコンセプチュアルなライヴっておもしろそうだなってずっと思ってて。で、それをやる自分たちなりに都合のいい日を探したときに、13日の金曜日がいいんじゃないかと。だから、それこそ最初は髭の曲で繋いでいく舞台みたいなイメージだったんだけど、それが仮装とかに変わっていった感じ」

2014年にスタジオ・ライヴという形で行われた2014年の〈CLUB JASON〉の映像、2015年作『ねむらない』収録曲“闇をひとつまみ”を演奏。〈CLUB JASON〉ではこうして毎回メンバーやスタッフが仮装(オーディエンスにも推奨)
 

――いわゆる対バン・イヴェントではなくて、企画性のあるイヴェントで、〈楽しむ/楽しませる〉っていうのは、髭らしい部分だなって。〈CLUB JASON〉以外に〈Party Mustache〉や〈Golden Raspberry Award〉もありますし。

「ディズニーランドにはすごいシンパシー感じてて(笑)。遊びに行くなら、びっくりするものを見たいよなって思うから、感情の起伏に触れるような、そういうサービス精神はあるんだと思う。そんなところは子供の頃からあったかな。無理に考えてやろうとはしてないし」

――〈別の世界を見せる〉っていうのは、サイケデリック・ミュージックと一緒に語られる〈エスケーピズム〉の感覚にも近いでしょうね。

「そういうのって、エンタテイメントと相性がいいんだと思う。俺の場合は、リアルを紡ぐってタイプでもないからね」

――だからこそ、“せってん”のような曲が零れ落ちるとなおさらグッときたり。

「かもしれない。まあ、リアルを突き詰めてエンタテイメントに昇華する人もいるとは思うけど、自分は基本的にはそっちじゃなくて、夢のような絵空事を膨らませるほうが合ってるんだと思うな」

 

★バンド崩壊の危機と盟友フィリポとの別れ、そして現在までを須藤寿が赤裸々に語り尽くした〈後編〉はこちら!


Live Information

〈STRAWBERRY ANNIVERSARY TOUR〉
10月20日(土)神奈川・横浜BAYSIS
10月27日(土)兵庫・神戸VARIT.
10月28日(日)京都・磔磔
11月3日(土・祝)宮城・仙台LIVE HOUSE enn 2nd
11月10日(土)北海道・札幌DUCE
11月15日(木)福岡CB
11月17日(土)大阪・梅田CLUB QUATTRO
11月18日(日)愛知・名古屋CLUB QUATTRO
11月23日(金・祝)東京・恵比寿LIQUIDROOM

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