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Chikashi ICHINOSE@skyworks Inc
 

セットリストも私の空想をたくましくする。あるいは彼らの20年の歴史を総覧するにうってつけだったといえばよいか。“構造I”を起点に、前半にあたらしめの“fkA”や“Ronald Reagan”を集め、後半は“Catch 22”“Circle/Line~Hard Core Peace”Hey Joe”などの代表曲になだれこんでいく。観客へのホスピタリティとフロアのもりあがりとダンスの機能を保証した構成だと拝察したが、“ジャングル・クルーズにうってつけの日”の蜿蜿と伸張する時間、それとは好対照な“Ronald Reagan”の切片化したモチーフなど、私にはこの日の中盤の演奏こそ印象的だった。音楽的にも物語的にも安易な〈解決〉に逃げず、反復するモチーフが経過しつづける時間に滞留する、中盤の展開がなかりせば、後半の怒濤の展開は訪れない。

私はなにせ恵比寿みるくでのデビューライヴも(偶然でしたけども)目撃したほどの古株のリスナーなので、DC/PRGの粋というか髄というかキモというか、そういうのは自分なりにわかっていたつもりだったが、こうして全部入りのDC/PRGを久方ぶりに目にすると、そのコンセプトの高度さと広範さにあらためて舌を巻かずにはいられない。それすなわちリズムと音響の多様な構造体。そしてその表層に地紋のように浮かびあがる社会の無意識――。このように書くことが、とくに後段のつけたしが彼らを、菊地成孔をいたずらに神秘化することはわかっている。わかっているが、芸術の符牒は世界のカギとなるのもたしかである。ちょうど舞台上の菊地成孔が手にするクラーベがリズムの格子となっているように。

Chikashi ICHINOSE@skyworks Inc
 

クラーベはリズムを提示し、CD-Jは意味をしめし鍵盤は音響化した旋律を放出する。20年の歳月をかけて手にした三種の神器で、主幹・菊地は演奏者の頭の上の蛇口をひねり音の連なりがあふれだす。当の演奏者たちは20年の歳月が経つうちに作家性よりもいかに構想を血肉化するかが問われるようになった。いやハナからそうだったのがきわだってきた。そのことはファーストアルバム所収の3曲からなる後半の展開が旧懐でも予定調和でもなかったことが証明している。むろん“Catch 22”“Circle/Lien~Hard Core Peace”“Hey Joe”の3曲は彼らの持ち曲でもとりわけ認知度が高く、ソロイストがどのような演奏をしようとも、おそらく楽曲のアイデンティティはゆらがない。逆説的にそのぶんの余白を約束する場でともいえるのだが、再活動以後のソロイストの中心となる類家、大村、小田の“Catch 22”のソロを聴くと、活動再開後、新世代の血を入れたことでDC/PRGという音楽共同体のもつ余白そのものが拡張しているのがわかる。

そこから楽曲は管と菊地の鍵盤のかけあいに入り、現在のDC/PRGの両輪である坪口と小田の両鍵盤が呼びこんだ千住のドラムソロで“Catch 22”は幕を引き、シュトックハウゼン“習作2”の、菊地によるスクラッチで、20世紀を視座におさめたのちの“Circle/Lien”~“Hey Joe”は彼ら現在地のそこからの隔たりを証すかのようだった。なかでも“Hey Joe”のオリジナルからの懸隔を競う細分化した奇数拍子による解釈は、余白とははたしてどこまでが余白なのか、その限界を試すかのようであり、その挑発に激しく呼応するフロアの熱量こそ、DC/PRGの現在地というより2010年代の最末期の音楽の在処なのかもしれない。