2023年12月6日、ほぼ廃盤状態だった第二期SPANK HAPPYのシングルとアルバム、および〈菊地成孔 feat. 岩澤瞳〉名義のシングル“普通の恋”が、ついにサブスク解禁された。第二期SPANK HAPPYとは99~2004年、菊地成孔と岩澤瞳の2人で活動した時期の通称で、その歌・詞・サウンド・ライブ・ビジュアル表現などはカルト的なファンやフォロワーを一部に生んだことで知られている。菊地いわく〈作り出した私の思惑を遥かに超えて、人々を狂わせ、磔にしたまま、永遠に古びない〉二期スパンクスの作品、そして存在それ自体。Mikikiは、そんな二期スパンクスと“普通の恋”に人生を狂わされてしまった音楽家や表現者からのコメントを集めた(掲載は五十音順)。
なお二期スパンクスの全曲をDJプレイするパーティー〈2期スパンクハッピー・レトロスペクティヴ〉が来年、2デイズにわたって開催されることが決定、アーバンギャルド、電影と少年CQの出演も決まっている。菊地によるDJのみならずライブやクロストークも交え、当初の予定より拡大されたイベントになるという。詳細は後日発表されるとのことで、楽しみに待ちたい。 *Mikiki編集部
奥野紗世子
はじめてSPANK HAPPYを聴いたのは 2013年3月のことだ。
おそらく、ニコニコ動画で〈邦楽アンダーグラウンドシーンツアー〉というタグが付けられている動画を片っ端から漁っている最中に、違法アップロードの新宿ロフトでのライブ映像を見て、知ったのだろうと思う。
男が舞台上の装置を操作して、ボタンを押して曲を流す。
むっちりと色気を漂わせた美女が「あなたの国は小さい子のヌード写真が多すぎるってどのパーティでも言われた」「フォクシーひと粒でアダルトヴィデオの女の子みたいになれるって聞いたから」などと不穏な歌詞を無表情で〈唱えて〉いる後ろで、さっきの男は長いコートを着てタバコを吹かしていた。
サビでひとつのマイクで顔を寄せ合う姿がなんだか、とても淫靡で、ひとり暮らしな上に、わたしはハタチすぎていたけど、「いま親が部屋に入ってきたら気まずいな」みたいな後ろめたさを感じたはずだ。
当時Neue Deutsche Welleにハマっており、ある程度、奇抜なステージングのライブ映像には慣れていたが、日本でもこんな変なことをしている人が、80年代じゃなくて、最近存在していたのかと驚いた。同時に「もう活動してないのか」と残念にも思った。
“ヴァンドーム・ラ・シック・カイセキ”の歌詞はすばらしい。
異様な舞台設定に説得力を持たせる岩澤瞳の無機質な声がストーリーテラーとして完璧な役割を果たす。グレイス・ケリー、ジョンベネ・ラムジー、不自然だけど美しいばかりの印象を抱かせる固有名詞が物語にあるべきようにあって、その血生臭さに、わたしも死ぬほどうっとりしてしまう。
後半の語り手の男の職業がわからなくて「竿師ってやつ?」って小鉄くんにリプライしたら、「そうだと思うよ!」って返信がきたことをぼんやり思い出す。
Kotetsu Shoichiro
第二期SPANK HAPPYの配信解禁! もはやストリーミングにない音源は最初から存在しなかったかのような錯覚にすら陥る現代ですが「いや最初から存在しなかったんじゃない? SPANK HAPPYなんて音楽……そう、アタシの記憶だけにしか……」と、鼻の奥をツーンとさせながら胸の痛みを味わう暇もなく、名曲の数々が既に配信されてるじゃありませんか。
・French kiss(シングル版最高)
・たのしい知識(大友良英のギター最高)
・PHYSICAL(私はDJで誰かがこれをかけると毎回、無理やり誰か捕まえてあの振り付けを再現しています最高)
・ヴィーナスからアントワネットまで(『Vendôme~』は菊地成孔がポップスの上で吹くサックスをストレートに味わえるアルバムだと思う最高)
・普通の恋(もう特に言うこと無いです! 最高)
これらの楽曲がApple MusicでSpotifyで聴けて、インスタでシェアまで出来てしまうのです。いいですねー。これでURL一つで、「SPANK HAPPYっていうのがあってヤバいんですよ~」と人様に、特に令和の時代を生きる若人たちに伝えられる訳です。これまで人にスパンクスを聴かせようと思ったら、中古屋で見かけるたびに買ってストックしていた指紋べったりの中古CDの一枚一枚を無理くり押し付けるという、NSC(ネッチョリ・サブカル・中年)まっしぐらの蛮行しか手段がありませんでしたからね。それがどんなに小さな物であれ、贈与とは即ち恫喝であると知ったのはつい最近のことです。恫喝最高!
個人的な話……思えば菊地成孔の音楽を初めて聴いたのも、スパンクスが最初でした。10代の終わりに、MSNメッセンジャー(懐!)を通じて年長のサブカル青年知人にファイルをシェアされて“普通の恋”を聴き、その後(スパンクスじゃなくペペ・トルメント・アスカラールですが)カヒミ・カリィのカバー曲集に入っていた“The Look of Love”を聴き「雰囲気はいいんだけど、このキクチ……何とか? 男の方のキモい声いらないんですけどー」と思っていた自分が、気づけば何故かそのキクチ何とかのCDや本を買い集めるようになり、ライブに行き、遠征もし、カラオケでは薬師丸ひろ子“Wの悲劇”をペペバージョンで声マネで歌って周囲の失笑を買うまでのこの10+α年……色々あったような、ないような、何もかも置き去りにして時間は過ぎていきますなー。いや、10年どころか、音源のリリース自体は20年前とかじゃないですか! 20年前 アタシ産まれた頃のお話をして ねぇダーリン……♫
時代が早すぎた? やっと時代が追いついた? 当時はTommy february6に先を越された? いやいや『Computer House of Mode』を始めとする一連のCDに封じ込められた輝きは2005年も、2011年も、2014年も、2018年も、この20年の間ことさらに増すことも褪せることもない、不変のものでした(多分1979年でも、1983年でも。YMOの結成年と散開年)。
その音楽を不変たらしめているものはなんなのでしょうか? 岩澤瞳の声とキャラクター。洗練された音楽性とコンセプトの明確さ。パードン木村とCaptain Funkらによるトラックのダンスミュージックとしての強度。エトセトラエトセトラ……。
この一つ一ついずれもが理由となり得ますが、これらを統合して、SPANK HAPPYはいつでも〈恋愛と、それに舞い上がったり落ち込んだりする人々の愚かしさと愛おしさ、痛み〉を結晶化した存在として、私の心の中で永遠にふわふわと漂っておりました。その普遍性……恋愛に、スマホも地震も生前退位もAIも岸田政権も関係あると思いますか? 「恋をすると音楽ってあんなにも良く聴こえるのですね」と書いた小説家もおりますが、ポップスとしての強度とは即ち、その曲を聞いて思い出される・引き出される〈恋の痛み〉の鋭利さだとするならば、スパンクスのポップスとしての強度は金剛石のよう。それほどに痛い、辛い、甘い……くー、涙。
たとえ菊地成孔本人が「DCPRGはジャズとしてはそこそこ売れ、スパンクスはポップスとしては売れなかった」と語ろうとも、その歌詞は、メロディは、サウンドは、歌声は、まばゆく光り輝きながら、令和の時代の若人にも刺さるはず……あっ、別に若者じゃなくても大丈夫です! おじさんの心にも刺さると思いますが、おじさんの場合は致命傷になり得るのでそこだけご注意を!!!!