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僕らはアルバムが売れるグループ。コンサートが満杯になるグループ

西寺「ASKAさんはMVの撮影でアイスランドに行かれていましたよね」

ASKA「“歌になりたい”のMV撮影でね」

西寺「実は僕は1990年代からずっと〈飛鳥涼・日本のボノ説〉を勝手に唱えているんですけど……」

ASKA「???(笑)」

西寺「大学生の頃に新宿駅でU2の4人に遭遇したことがあるんです。ボノって身長はそんなに高くないんですけど、握手してハグしていただいたときに、胸が樽みたいでどっしりした体型というか。そんなときにテレビでASKAさんを見て、あれ、歌い方、スタイル、声も響くし、すごいな、ボノみたいだな、と。CHAGEさんはちょっとジ・エッジ感ありますし(笑)。で、僕は実は最近までASKAさんは生粋の福岡生まれ、福岡育ちだと思っていたんですけど、中高生の頃は北海道で過ごされたんですよね」

ASKA「そうだね」

西寺「“歌になりたい”のMVを拝見して、アイルランド出身のU2の大地の冷たい空気の中でバーンッと響き渡る感じを、僕はどうしてASKAさんに感じていたのかなと思っていたら、ASKAさんは北海道で暮らした時期があった。勝手に納得したと言いますか。ASKAさんとボノの〈北の荒野に響く歌声感〉がリンクして。今回のアルバムの一曲目の“憲兵も王様も居ない城”も、個人的にはU2やザ・ポリス的な感覚で聴いたりしました」

西寺「僕には、ASKAさんは本当に色んな形にメタモルフォーゼされる音楽家、というイメージがあります。今日はそのあたりも質問させていただきたくて。最初にCHAGE and ASKAが〈ザ・ベストテン〉に出た頃は、確かフォークデュオみたいな二人組でしたよね? 当時僕は7歳くらいでしたけど……」

ASKA「7歳で我々が出てきたときのイメージは残っているんだね」

西寺「めちゃくちゃ残っています(笑)! まだまだその頃は自宅にビデオ・デッキがなかったんで、ヒット曲を1回で覚えようとともかく真剣に見ていました」

ASKA「西寺くんは音楽に関しては早熟だったんだね」

西寺「とは言え最初に自主的に好きになったのは、1980年なんで小学校1年生ですかね。田原俊彦さんの曲だったり、松田聖子さんだったり。CHAGE and ASKAは長い間、少し〈大人の音楽〉って感じでした。ASKAさんが歌詞を書かれた葛城ユキさんの“ボヘミアン”は、めちゃくちゃ好きで。小4の時、めちゃくちゃガラガラ声で怒鳴るように歌うっていうモノマネ?でクラスの人気者にならせてもらったり(笑)。でも僕は当時もいまも日本の音楽はほとんど知らなくて、先ほどもお伝えしましたけど、“ボヘミアン”の頃、小4でプリンス、マイケル、ビートルズ……」

ASKA「それは早いね(笑)。早熟もいいところだよ(笑)」

西寺「で、数年経って親が英語の教師だったので、中1の夏休みに頼み込んでイギリスに連れて行ってもらったり、アビーロード・スタジオやリバプールに連れて行ってもらったりして。で、中2の夏に“STAR LIGHT”で光GENJIがデビューして旋風を巻き起こして。その直後に『恋人はワイン色』を知って。ASKAさんの歌っているときの言葉の乗り方、乗せ方がすごいな、と。個人的には、ポニーキャニオン移籍後の86年の“モーニングムーン”でCHAGE and ASKAはだいぶ変わったと感じているんですが」

ASKA「そうだね。あの当時は、まだ小学生の西寺くんが音楽業界を表面で見ているときだね。〈ザ・ベストテン〉という歌番組があって、それに出ることにアーティストたちは目を向けていたし、そこに出てくる人たちを、世の中が〈いまの人たちだ!〉って確認し合うすごい時代だった。そんなときにCHAGE and ASKAはデビューして。やっぱり〈ベストテンに出ないと世間が認めてくれない〉って思って、結局3曲目で出演できたんだけど、それ以降は、コンサートに来てくれるお客さんはどんどん増えるのに、ベストテンというところからは距離を空けられたんだよ」

西寺「“万里の河”(80年)以降ですか?」

ASKA「そう。コンサートをすればどこの会場も満杯。会場の規模も大ホールでやれるようになって。そのころはツアーを60本くらいまわっていたけど、全部ソールドアウト。このお客さんがレコードを買ってくれたら常にベストテンで1位なのに、どうして1位にならないんだろう?って思っていたよね(笑)。そんな不信感も持っていた。でも途中から、そういうことじゃなんだな、と。自分たちはシングルをどんどん出すのではなくて、〈アルバムを待たれるアーティスト〉になったんだな、と。それはもしかしたら、自分の気持ちを落ち着かせるための、自分に向けたガードだったのかもしれないけど、だからそう思い込んでいたのかも。でも実際、アルバムのセールスはよかったからね」

西寺「そのころは競争相手とかはいたんですか?」

ASKA「競争相手はいなかったけど、ベストテンに出ていれば世間でいうところの〈すごい人たち〉だったから。出ていなければブームで終わる人たち。あの頃からだよね、一発屋なんて言葉が出てきたのは。アーティストからしたらひどい言葉だよね。その一発をヒットさせるのに、どれだけの運とどれだけの労力と、どれだけの人が動いてくれているか。僕らは一発屋とは呼ばれないグループに入れてもらえてはいたけど……」

西寺「“万里の河”以降しばらくは、少し焦っていたということでしょうか?」

ASKA「その近くはウロウロしていたかな(笑)。とにかく業界内に〈シングルレコードは売れないのに常にコンサートは満杯になるグループ〉ということが広がっていったから、そういう意味では心配はしていなかった。でもやっぱり、シングルが売れないことは心の中で責任を感じていたことはあるね。それは自分の音楽に責任を感じるということではなくて、コンサートに来て応援してくれているファンの人たちに、ベストテンのあの鏡のドアから出てくる姿を見せてあげたかったな、シングルがヒットするところも見せてあげたかったなって。でもその気持ちもデビューから10年目になくなったね。ちょうど89年あたり。そのころに『PRIDE』というアルバムを出したんだけど、プロデューサーから、10年よくがんばったね、これからはヒット曲なんか気にしないで好きな曲を作ってと言われて……」

西寺「そこから結局めちゃくちゃヒットするじゃないですか(笑)」

ASKA「そうそう(笑)」

西寺「89年というと、ちょうどベストテンも終了した時期でしたもんね」

ASKA「そうだね。よく知っているね。西寺くんはデータ人間だね(笑)」

西寺「僕はその辺りはよく知っているんですよ(笑)。CHAGE and ASKAは、80年代半ばにワーナー・ミュージックからポニーキャニオンに移籍されますよね。それはお二人が雰囲気を変えたいからレコード会社を変わろうと言ったのか、“万里の河”以降ちょっとアレだよね……とワーナーから話が来たのか、どちらだったんでしょうか?」

ASKA「それは自分たちからだよ。やっぱり、レコード会社の人たちが自分たちにどれくらいの情熱を注いでくれているのかっていうのを、ある日どこかである瞬間感じたんだ。でもそれはね、仕方がないと思っている。ツアーでいくらお客さんが入ったところで、もちろんアルバムは売れていたけどシングルが売れなかったらレコード会社としてはおいしくないんだから。アルバムはそれなりに売れていたんだけどね。しかし、自分たちの作品をもっと知って欲しかった。そんな葛藤からの移籍だったね」

西寺「それで移籍して“モーニングムーン”ですよね」

ASKA「そうだね」

西寺「CHAGE and ASKAのお二人と佐藤準さんのコンビ、めちゃくちゃいいですよね!」