ASKAのニューアルバム『Breath of Bless』 のリリースを記念して、タワーレコードではフリーマガジン〈TOWER PLUS+〉の臨時増刊号〈別冊TOWER PLUS+〉を本日より配布中! 中面ではASKAと西寺郷太の特別対談を掲載しています。ここでは、誌面に収まりきらなかった対談の完全版原稿を特別掲載いたします。
※タワーレコードオンラインは除きます。※別冊TOWER PLUS+は無くなり次第終了となります。※天候や交通事情により配布が遅れる場合がございます。
1979年のデビュー以来、日本の音楽シーンを築いてきた立役者ASKAと、「ASKAさんをソングライター、シンガーとして尊敬している」とかねてから公言し、CHAGE and ASKAのカヴァー曲も発表したNONA REEVESの西寺郷太とのスペシャル対談が実現! 西寺郷太が感じる音楽的魔力の秘密をASKAに直撃ロングインタビュー。
プリンスの“パープル・レイン”はド頭から掴まれた。プリンスには圧倒されるよね
西寺郷太「今年の2月に、CHAGE and ASKAの『恋人はワイン色』をカヴァーした7インチを発売させていただきました。井の頭レンジャーズとコラボレーションしまして。今回そのリリースがきっかけでASKAさんの対談相手として僕に声がかかったと思うんですが。ASKAさんと直接、音楽の話が出来る日を心待ちにしてました……」
ASKA「ありがとう」
西寺「2017年にリリースした僕らのアルバム『MISSION』の中に“NOVEMBER”という曲があって、これは、作曲はギターの奥田(健介)で。作詞は僕が担当でした。奥田がデモを持ってきたときに、凄い曲だなと。で、〈作詞を書く際に参考になるのは、ASKAさんの世界だな〉と直感しました。それまでのNONA REEVESより更に本格的なAORで、大人の恋愛の曲、女性目線の歌詞を僕が歌うのはどうかなと。ASKAさんの歌詞を研究して作った“NOVEMBER”は、今ライブで指折りに人気の曲なんです。今回リリースした7インチは両A面で、プリンスの曲もカヴァーしているんですが、プリンス・サイドは紫色のジャケットで、CHAGE and ASKA サイドはタイトルに合わせてワイン色にして。因みに、今日の僕の服もワイン色っていう……合わせてきました(笑)」
ASKA「芸が細かいね(笑)。プリンスはいつごろから好きなの?」
西寺「僕は73年生まれで、プリンスは9、10歳くらいから好きですね」
ASKA「僕は実はね、プリンスってよく分からなかったんだよ。なんとなく漂う雰囲気が自分とは違う人だなって。音楽自体も、なんていうんだろうな、攻撃的、ポップ、ロック、いろんなものを融合しているんだけど、自分のポップス感覚にフィットした曲がそもそもなかったんだよ。そんなときに“パープル・レイン”が出てきて、やっぱりもうド頭で掴まれたよね」
西寺「プリンスは78年デビューで、79年デビューのCHAGE and ASKAとほとんど同じですよね。僕は“パープル・レイン”をASKAさんが歌ったらハマりそうだなって、もう映像まで浮かんでいるんですけど……」
ASKA「“パープル・レイン”の頭ってコードはナインスから始まるでしょ? それを“WALK”で使ったんだよね」
西寺「え? あとで確認してみます(笑)。"パープル・レイン"で言えばイントロのFadd9、Ebadd9って下降してゆくパートでしょうか……。プリンス&ザ・レヴォリューションのギタリスト、ウェンディがその部分のコードはつけた、と言っていますね。ウェンディの父親はジャズ・ピアニストで多数のヒット曲に携わってきたマイク・メルヴォワン。幼い頃から複雑で甘美なコード感覚を磨いてきた才女がプリンスのそれまでの〈黒人音楽的〉な音楽性を拡張したと言いますか……」
ASKA「脱皮の時期だったんだね」
西寺「そうだと思います。“パープル・レイン”以降のしばらくは、アジア人にも白人にも伝わるコードのエレガントさがありますよね」
ASKA「そこが僕がプリンスに対して引っ掛かっていた部分なんだよね」
西寺「そう言えば……。プリンスやマイケル・ジャクソン、マドンナ、ASKAさん、小室(哲哉)さんはみんな1958年生まれじゃないですか」
ASKA「そうだね」
西寺「ASKAさんとCHAGEさんは早生まれなので日本の学校だったら学年が一つ上なんですけど、もし仮にASKAさんが、自衛官のお父さんの都合でアメリカに行っていたら、アメリカの学校は9月スタートなので、8月29日生まれのマイケルとASKAさんは同級生になって。ともかく日米ともにすごい学年だな、と(笑)。僕は勝手に〈花のごっぱち〉って呼んでいるんですけど(笑)」
ASKA「(笑)。プリンスとは93年にモナコで行われた〈World Music Aword(モナコ音楽祭)〉で会ったことがあってね。全世界でトップセールスを挙げた人たちがモナコ王子に選ばれて晩餐会に招待されて、それは全世界に放送されるんだけど、その放映権をチャリティに寄付するという形の音楽祭で。そこにプリンスやマイケル・ジャクソンがいて、二人はゲストだったと思うんだけど、その本番前日にプリンスはGIGをやったんだよね」
西寺「ASKAさんも観に行かれたんですか?」
ASKA「もちろん。小さい会場でアーティストがアーティストを観に行くためのGIGだったんだけど、それはもうかっこよくてね。プリンスやマイケル・ジャクソンがいるあの空間というのは、自分たちがいまどの位置にいるのか分からない感覚になったよね」
西寺「実は、CHAGE and ASKAとNONA REEVESファンの仲の良いDJに、今回『恋人がワイン色』のカヴァーで裏面がプリンスだよと伝えたら、モナコ音楽祭の話になって。当時CHAGE and ASKAのお二人がラジオで〈プリンスをライブで見たら小さくて、遠いからだろうと思って近くて見ても元々小さかった〉みたいな話を楽しそうにしていたという情報を事前に聞いていたんです(笑)」
ASKA「プリンスは高いブーツを履いていたね(笑)。でもやっぱりプリンスには圧倒されるよね。音楽がすごいのはもちろんだけど、出てきたときの存在感がね、パフォーマンスもすごかった。まあ、転ばないか心配だったけどね(笑)」
僕らはアルバムが売れるグループ。コンサートが満杯になるグループ
西寺「ASKAさんはMVの撮影でアイスランドに行かれていましたよね」
ASKA「“歌になりたい”のMV撮影でね」
西寺「実は僕は1990年代からずっと〈飛鳥涼・日本のボノ説〉を勝手に唱えているんですけど……」
ASKA「???(笑)」
西寺「大学生の頃に新宿駅でU2の4人に遭遇したことがあるんです。ボノって身長はそんなに高くないんですけど、握手してハグしていただいたときに、胸が樽みたいでどっしりした体型というか。そんなときにテレビでASKAさんを見て、あれ、歌い方、スタイル、声も響くし、すごいな、ボノみたいだな、と。CHAGEさんはちょっとジ・エッジ感ありますし(笑)。で、僕は実は最近までASKAさんは生粋の福岡生まれ、福岡育ちだと思っていたんですけど、中高生の頃は北海道で過ごされたんですよね」
ASKA「そうだね」
西寺「“歌になりたい”のMVを拝見して、アイルランド出身のU2の大地の冷たい空気の中でバーンッと響き渡る感じを、僕はどうしてASKAさんに感じていたのかなと思っていたら、ASKAさんは北海道で暮らした時期があった。勝手に納得したと言いますか。ASKAさんとボノの〈北の荒野に響く歌声感〉がリンクして。今回のアルバムの一曲目の“憲兵も王様も居ない城”も、個人的にはU2やザ・ポリス的な感覚で聴いたりしました」
西寺「僕には、ASKAさんは本当に色んな形にメタモルフォーゼされる音楽家、というイメージがあります。今日はそのあたりも質問させていただきたくて。最初にCHAGE and ASKAが〈ザ・ベストテン〉に出た頃は、確かフォークデュオみたいな二人組でしたよね? 当時僕は7歳くらいでしたけど……」
ASKA「7歳で我々が出てきたときのイメージは残っているんだね」
西寺「めちゃくちゃ残っています(笑)! まだまだその頃は自宅にビデオ・デッキがなかったんで、ヒット曲を1回で覚えようとともかく真剣に見ていました」
ASKA「西寺くんは音楽に関しては早熟だったんだね」
西寺「とは言え最初に自主的に好きになったのは、1980年なんで小学校1年生ですかね。田原俊彦さんの曲だったり、松田聖子さんだったり。CHAGE and ASKAは長い間、少し〈大人の音楽〉って感じでした。ASKAさんが歌詞を書かれた葛城ユキさんの“ボヘミアン”は、めちゃくちゃ好きで。小4の時、めちゃくちゃガラガラ声で怒鳴るように歌うっていうモノマネ?でクラスの人気者にならせてもらったり(笑)。でも僕は当時もいまも日本の音楽はほとんど知らなくて、先ほどもお伝えしましたけど、“ボヘミアン”の頃、小4でプリンス、マイケル、ビートルズ……」
ASKA「それは早いね(笑)。早熟もいいところだよ(笑)」
西寺「で、数年経って親が英語の教師だったので、中1の夏休みに頼み込んでイギリスに連れて行ってもらったり、アビーロード・スタジオやリバプールに連れて行ってもらったりして。で、中2の夏に“STAR LIGHT”で光GENJIがデビューして旋風を巻き起こして。その直後に『恋人はワイン色』を知って。ASKAさんの歌っているときの言葉の乗り方、乗せ方がすごいな、と。個人的には、ポニーキャニオン移籍後の86年の“モーニングムーン”でCHAGE and ASKAはだいぶ変わったと感じているんですが」
ASKA「そうだね。あの当時は、まだ小学生の西寺くんが音楽業界を表面で見ているときだね。〈ザ・ベストテン〉という歌番組があって、それに出ることにアーティストたちは目を向けていたし、そこに出てくる人たちを、世の中が〈いまの人たちだ!〉って確認し合うすごい時代だった。そんなときにCHAGE and ASKAはデビューして。やっぱり〈ベストテンに出ないと世間が認めてくれない〉って思って、結局3曲目で出演できたんだけど、それ以降は、コンサートに来てくれるお客さんはどんどん増えるのに、ベストテンというところからは距離を空けられたんだよ」
西寺「“万里の河”(80年)以降ですか?」
ASKA「そう。コンサートをすればどこの会場も満杯。会場の規模も大ホールでやれるようになって。そのころはツアーを60本くらいまわっていたけど、全部ソールドアウト。このお客さんがレコードを買ってくれたら常にベストテンで1位なのに、どうして1位にならないんだろう?って思っていたよね(笑)。そんな不信感も持っていた。でも途中から、そういうことじゃなんだな、と。自分たちはシングルをどんどん出すのではなくて、〈アルバムを待たれるアーティスト〉になったんだな、と。それはもしかしたら、自分の気持ちを落ち着かせるための、自分に向けたガードだったのかもしれないけど、だからそう思い込んでいたのかも。でも実際、アルバムのセールスはよかったからね」
西寺「そのころは競争相手とかはいたんですか?」
ASKA「競争相手はいなかったけど、ベストテンに出ていれば世間でいうところの〈すごい人たち〉だったから。出ていなければブームで終わる人たち。あの頃からだよね、一発屋なんて言葉が出てきたのは。アーティストからしたらひどい言葉だよね。その一発をヒットさせるのに、どれだけの運とどれだけの労力と、どれだけの人が動いてくれているか。僕らは一発屋とは呼ばれないグループに入れてもらえてはいたけど……」
西寺「“万里の河”以降しばらくは、少し焦っていたということでしょうか?」
ASKA「その近くはウロウロしていたかな(笑)。とにかく業界内に〈シングルレコードは売れないのに常にコンサートは満杯になるグループ〉ということが広がっていったから、そういう意味では心配はしていなかった。でもやっぱり、シングルが売れないことは心の中で責任を感じていたことはあるね。それは自分の音楽に責任を感じるということではなくて、コンサートに来て応援してくれているファンの人たちに、ベストテンのあの鏡のドアから出てくる姿を見せてあげたかったな、シングルがヒットするところも見せてあげたかったなって。でもその気持ちもデビューから10年目になくなったね。ちょうど89年あたり。そのころに『PRIDE』というアルバムを出したんだけど、プロデューサーから、10年よくがんばったね、これからはヒット曲なんか気にしないで好きな曲を作ってと言われて……」
西寺「そこから結局めちゃくちゃヒットするじゃないですか(笑)」
ASKA「そうそう(笑)」
西寺「89年というと、ちょうどベストテンも終了した時期でしたもんね」
ASKA「そうだね。よく知っているね。西寺くんはデータ人間だね(笑)」
西寺「僕はその辺りはよく知っているんですよ(笑)。CHAGE and ASKAは、80年代半ばにワーナー・ミュージックからポニーキャニオンに移籍されますよね。それはお二人が雰囲気を変えたいからレコード会社を変わろうと言ったのか、“万里の河”以降ちょっとアレだよね……とワーナーから話が来たのか、どちらだったんでしょうか?」
ASKA「それは自分たちからだよ。やっぱり、レコード会社の人たちが自分たちにどれくらいの情熱を注いでくれているのかっていうのを、ある日どこかである瞬間感じたんだ。でもそれはね、仕方がないと思っている。ツアーでいくらお客さんが入ったところで、もちろんアルバムは売れていたけどシングルが売れなかったらレコード会社としてはおいしくないんだから。アルバムはそれなりに売れていたんだけどね。しかし、自分たちの作品をもっと知って欲しかった。そんな葛藤からの移籍だったね」
西寺「それで移籍して“モーニングムーン”ですよね」
ASKA「そうだね」
西寺「CHAGE and ASKAのお二人と佐藤準さんのコンビ、めちゃくちゃいいですよね!」
ピアノの中に自分の思い描いた世界の曲がつまっているのかも……
西寺「僕はCHAGE and ASKAの作品をずっと熱心に聴き込んでいるミュージシャンではないんです。ピンポイントでノックアウトされていると言いますか。特に86~89年あたりの、AOR的でアーバンなCHAGE and ASKAと言いますか、本格的なアレンジャーと組んだエレガントな香りの漂う楽曲が好きで。同じポニーキャニオンで、おニャン子クラブがいたり光GENJIがいたり、あのアイドル音楽が爆発した時代に、ASKAさんが、ソングライターとしてボールの弾み方を実験したり楽しめた、そしてCHAGE and ASKA本体の活動も再起動させたという意味で移籍は大正解だったのかな、と。現在の視点から見ればそう思うんですけど」
ASKA「西寺くんは移籍の経験は?」
西寺「4回くらいあります(笑)。最初はASKAさんと同じワーナーで。また戻ったり。でも僕がいま思っているのは、ラジオやSNSやいろんなメディアを活用して自分から発信できる場所をたくさん持つこと、そこで一生懸命伝える努力もするしかないと」
ASKA「そうなんだよね。僕もいまはレコード会社に所属していないからね。でも勘違いされたくないのは、所属がないことがカラ元気に取られると嫌で。さっき西寺くんが言ったように、自分の〈アウトプットするする場所〉さえあれば、所属はなくていいと思っているんだ」
西寺「『Breath of Bless』もそうですし、MVの撮影でアイスランドに行かれていることもそうですけど、レコード会社に所属されていなくても、予算がかかっているのが分かりますし、アルバムの曲もASKAさんオリジナルで凄まじい。プリンスもまさにそういう人で、自分のレコード会社を作って、途中からは自らの作りたい音楽を作れる場を構築しました。プリンスは、ペイズリーパークという本拠地にスタジオを作りましたが、そう思えばASKAさんも88年にスタジオを作られていますよね」
ASKA「BURNISH STONE STUDIOだね。当時の日本は、スタジオは利益が出ないと言われていたんだけど、海外を見ると、向こうのミュージシャンはみんなプライヴェートスタジオを持っている。だから実験的にスタジオを作ってみようと、知人と二人で始めたんだよ。そうしたら日本の音楽業界始まって以来のことで、こういうアーティストが日本にも出たのかってことで、みんなが協力してくれてね。BURNISH STONE STUDIOをきっかけに、そのあとアーティストがスタジオを持つようになったよね。でも自分は、ほかの人に影響を与えようなんて思っていなくて、時間がかかっても音楽を作れるような場所が欲しかった。思いきってそれをやってみたら、日本にもそういう人が現れたんだな、って。なんだ、できるんじゃん!ってね」
西寺「それはASKAさんがイギリスに行かれる前ですか?」
ASKA「そうだね」
西寺「そう言えば、ASKAさんはMacもめちゃくちゃ早く導入されたと聞いたんですが?」
ASKA「Macもイギリスに行く直前からだから、89年だね。その前に、86、7年にカモンミュージックのシーケンスソフトを使っていたんだけど、これが怖くてね」
西寺「怖い? カモンミュージック! 当時のMIDIシーケンサーでしたっけ?」
ASKA「キーボードに〈K〉ボタンがあって、それをうっかり押したらデータが全部消える(笑)。Ctrl+Zを入力すると前の操作に戻るUndo(アンドゥ)モードがないから」
西寺「え? それ最悪じゃないですか!」
ASKA「どうして怖いかというと、その経験があるから。僕は未だに譜面を書くのに時間がかかるんだけど、そのときは初めてストリングスの譜面を書いていて。3日かかって16小節。かなり自分の中ではいいものができたと、ストリングス部分だけをカセットテープに録音しておこうと思って席を立った瞬間、Kを押した(笑)」
西寺「カモンミュージックとの名前のギャップがいいですね。カモン言うてるのに消してるやん!みたいな(笑)」
ASKA「(笑)。三日三晩制作してストリングスだけでも11~12時間はかかっている。消してしまったのは多分夜中でボー然としていたんだけど、でも僕はデモテープは完璧に作りたくて、イチから作り直した。そうしたら今度は3時間かからなかった。一回やったことは自分の中で覚えているんだと。そのことはすごくいい経験になったよね。MacにはUndoモードがあって、びっくりした(笑)」
西寺「そこからはMacを駆使してご自身で作られて……」
ASKA「そうだね」
西寺「今回タワーレコードから対談のお話をいただいて、お引き受けした最大の理由、それは僕が、これはラジオなんかでも言いまくっていることなんですけど、CHAGE and ASKAのお二人が作られた光GENJIのファースト・アルバム『光GENJI』(88)が自分にとって日本人が作った最高傑作アルバムだと主張しているほど大好きだからです。“STAR LIGHT”“ガラスの十代”といったシングルだけでなく、モータウン・ビートの“Hurry Up”や、珠玉のバラード“Graduation”まで全曲好きで。ASKAさんの作詞家、作曲家としての仕事をリスペクトしていたんです。当時の子供たちが〈一番最初に買ったレコードが光GENJI〉というパターンってすごく多いと思うんですよね。一番最初に子どもにレコードを買わせて音楽に夢中にさせるって凄いことだと思っていて。光GENJIのアルバム全曲をCHAGE and ASKAのお二人に委ねたジャニー(喜多川)さんも本当に凄いなと思うんですが。その後、もちろんその中からCHAGE and ASKAファンになったという人もいて、そこから“SAY YES”(91)などの国民的ヒットに繋がると思うんです。そこで聞きたいのが、“SAY YES”についてです。コード進行はASKAさんがデモ段階ですでに構築されていたのかということで……」
ASKA「そうだね」
西寺「ウチのギターで鍵盤も弾く奥田は〈コード進行オタク〉と言いますか、フェチで。彼がずっと昔から『“SAY YES”のコード進行がヤバ過ぎる』って言っていて。確かにともかく凄い。で、疑問なのは、ASKAさんは高校3年で初めてギターを持つまでは純然たる剣道少年だったわけですよね。で、井上陽水さんに憧れて、大学4年でデビューされました。そこまでの速度も凄いんですが、プロになってしばらくしてからキーボードを始められて。凄い数のツアーも重ねられて。並行してASKAさんはいち早くMacを使われたり、ご自分でBURNISH STONEというスタジオを作られたり。80年代もめちゃくちゃ忙しかったと思うんですけど、どうやってそんな状況下の中でピアノを身につけ、コードも研究されたのかな?と」
ASKA「おそらくそれはね、西寺くんがまだギリギリのところにいったことがないからだと思うよ」
西寺「ギリギリ、ですか?」
ASKA「結局、僕はコードもおぼつかないまま、アーティストのコピーをすることもなく曲作りのみでデビューしたからね。高校3年の秋からギターを始めて、大学4年でデビューしたから、アマチュア期間は4年。(井上)陽水さんみたいに歌いたいっていう気持ちが先で、ギターでコードを覚えたら即曲作りを始めてしまった。僕の音楽の入り口はフォークだったから。自分の思い描いていた音楽とは違うけど、フォークという玄関が開いていたから、そこに入っていって曲を作っていた。だから自分の中では、こんな感じで作っていれば喜んでくれるカテゴリっていうのが〈僕〉だったんだよね」
西寺「なるほど。当時、フォークは大流行してましたしね」
ASKA「そうそう。ギターがおぼつかないながらも〈歌いたい! 曲を作りたい!〉が先で……。だいたいのミュージシャンがたどってきた、バンドのコピーをしたり、コード分析をしたり、誰かに影響されたりっていう、僕にはそういうバックボーンが何もないんだよね。映画音楽ばかり聴いていたし」
西寺「インタビューで映画音楽がお好きだったと読んだことがあります。映画音楽のインストとか?」
ASKA「そう。だから余計に陽水さんの曲が巧みに感じたんだろうね。陽水さんの歌を聴いたときに、歌謡曲とは明らかに違う音楽だなって思ったんだよね。だから自分の音楽の入り口は、フォーク。自分の中では別のものがあるのに、こんな感じって、自分でわざと殻を作ってしまっていたんだよね。じゃあ、その別のものは何かというと、それがわからなかった。でも、こんな感じでデビューしたし、こんな感じの枠で、こんな感じの曲を作らないといけないっていう。〈こんな感じ〉がようやく分かるようになってきたのは、もう何も出てこないくらい、自分が〈フル〉になったとき。だって、こんな感じというのは自分自身が決めていたことだったからね。そのときにね、あーもうだめだなって、もう曲は書けないなって思ったんだよね。まあでもほら、幸せなことだよ。全国でライブをすればお客さんは満杯になってくれるし。
でもね、ここから5~6年が経って、これだけやれたからよかったんじゃないかなって思ったときに、どうせ音楽ができなくなるんだったら、ギターじゃなくて鍵盤でやってみようかなって思って、鍵盤を仕入れたんだよね。幼稚園の時にオルガン教室には通っていたんだけど、〈ド〉の位置も分からなかったよね(笑)。指で2本で押さえながら3本になったら、あ、これコードだって。で、それが4本になっていって、ベースがオクターブになっていって、テンションを押さえるようになって、これってもしかしたら、フォークじゃなくてピアノの中に自分の思い描いた世界の曲がつまっているのかも……と思ったんだ。それがちょうど、86、87年くらいだね」
西寺「“モーニングムーン”とかのあたりですね」
ASKA「もうね、おもしろいように曲ができたんだよ」
西寺「ピアノはめちゃくちゃ練習されたんですか?」
ASKA「練習はしないんだけど、コードを覚えていったよね」
西寺「ギターで弾いていたのが、これがこれでこういうテンションでこういうことか……みたいな。剣道のストイックな訓練とかに似てるんでしょうか。集中して〈型〉を覚えるような」
ASKA「そうだね。ギターでテンションを見つけるのって、開放弦なんかを使っていると、一瞬これなんのコードだ?って思うでしょ。ピアノっていうのは、バンッて押さえたらもうコードだから。シンプルで、見たままなんだよね。そこから何分の何とかを研究して分母分子って考えていくと、音楽は数学に似ているな、と。そこから間もなくコンピューターでしょ? コンピューターの時代になってMC4っていうのが出てきたんだよ。4トラックのね。それを打ち込み始めて画面で見ていくうちに、あ、音楽は数学だと思って……」
西寺「数学と仰る感じ、わかります。それにしても僕はスポーツ少年がギター弾き語りの世界からピアノにいって、そこからコンピューターにシフト、自分の本格的スタジオまで作ってしまうっていうデビュー時から5年、10年を経た時のCHAGE and ASKAのアーティストとしてのイメージの変化というか、飛鳥涼さんがASKAとなって変貌してゆく進化のスピードに物凄く興味があって」
ASKA「自分の中で気を付けていることがあってね。ごめんね、言葉を選ばないで言っちゃうけど、僕は、常に新しいものに向かって壁に向かって壁をぶち破ってきていた気がするんだ。ある意味、開拓者であり改革者の、宿命なんだよね。新しいものにぶち当たったときは破らなきゃいけない。そのときは破ることが目的だから、破り方はスマートじゃないんだよ。それで、破られた壁の後を、色々な人たちが通って行くときに、その壁のデザインを決めたりキレイにしてくれる。すると、破った人のことはとりあえず置いといて、そのきれいにデコレーションしてくれた人をみんなが見る(注目する)んだよね」
西寺「確かに二人目、三人目の方が美しく突破できる、そして評価する人はそこにしか目が行かない、というのはあるかもしれませんね。評価って基準が定まらないとできない人が多いんで。よほどの審美眼がなければ怖いんじゃないですか? だからたいてい他の人と同じになる」
ASKA「自分がやってきたことは、後ろに必ず誰かが通って舗装整備してくれる。そのときに、自分がやったんだということはもうどうでもいいと。舗装された部分を、今度はいかに自分がもう一回きれいに使っていくかを考えようって。それは色々なバネになっているよね」
光GENJIは楽しかった。手のついていない領域で、もう何をやっても新しいから
西寺「先ほどの光GENJIの話で、自分のファンもしっかりいらっしゃるシンガーソングライターが光GENJIの楽曲を作るってことも、僕は開拓者だと思うんです」
ASKA「光GENJIに関しては、開拓者だったのはジャニーさんだったよね。それまでは、ジャニーズの曲は作曲家や作詞家などの、いわゆる先生と呼ばれる商業作家と呼ばれる人たちが手掛けていた。そんなときに、光GENJIというローラースケートを履いてこれまでになかったグループをデビューさせるにおいて、いまの作家陣からニューミュージック系、ロック系に変えようという話になってね。当時僕らはポニーキャニオンに移籍して、シングル4枚、アルバム3枚出しますと公言して達成した年で、それをジャニーさんが見ていたんだね」
西寺「“モーニングムーン”で新たに打ち出したアダルトなアーティスト・イメージとアイドル音楽のイメージって、普通の人にはそもそも結びついていなかったと思うんですけど、ジャニーさんには見えていたんですね。それが“STAR LIGHT”で一気に……。光GENJIのファースト・アルバムの凄さは本当にずっと言い続けていまして。あの当時、光GENJIであれば、コンペで100人くらいに曲を書かせてそこから10曲を選ぶこともできたのに、アルバム全部をCHAGE and ASKAに任せたというところが、もう…。ジャニーさんや、メリー(喜多川)さんの凄さはそういうところですよね」
ASKA「コンペという言葉が出てきたのは光GENJIから5~6年してからだよね。アルバム制作はおもしろかったよ。当時ジャニーさんには〈3曲続けてやらせてください〉ってお願いしたんだよ」
西寺「“STAR LIGHT”“ガラスの十代”“パラダイス銀河”ですね!」
ASKA「1、2、3とステップを上げていきましょう、階段を上げていきましょう、と。ジャニーさんはその場で僕らの意見を呑んでくれて、そのあとアルバムの話になって、コンセプトはどうしましょうか、と。でも僕はコンセプト自体が苦手だから、全部いい曲っていうアルバムを目指して」
西寺「『光GENJI』は最初からベストアルバムですもんね! あと、その後しばらくしての”荒野のメガロポリス”(90)も大好きで。パフォーマンスはあの曲が一番完成されているし、まさにいまの東京オリンピックを巡るコロナ騒動や世界の動きを予見したような歌詞で」
ASKA「自分の持ち味は〈ヴァリエーション〉だと思っているから、だから光GENJIは楽しかったよね。手のついていない領域で、もう何をやっても新しいから。すべてがやりやすかった。そう考えたらビートルズもやりやすかったんだろうなと思うよね。いまは全世界でビートルズよりいいメロディだと感じるメロディを書くアーティストがごまんといる。でもそれは、ビートルズがやったから、彼らが開拓していったからであって。ビートルズっぽい人は山ほどいるけど、でも評価はされないよね。ビートルズという枠の中で目立つのはすごく難しいことだから。だからそういう意味では、常に世の中というのは、何か扉が開いていたり、川の向こうに一つ橋ができたら、そこをいかにうまく渡るか、いかに魅力的に渡るかで、ソフィスティケートされていくんだよね」
西寺「ASKAさんはどちらかというと、不格好でもボーダーを潰してきたという意味で仰ってるんだと思うんですが。今回、ご自身のレーベルからリリースされたアルバムが、まさに瑞々しくて、まさしくインディペンデントで驚きました。特に3曲目のミディアムメロウ“どうしたの?”は、イントロの鍵盤の響きから何もかも大好きです。ASKAさんの最近のインタビューは、読めるものは全部読んだんですけど、ソングライターとして驚くほどに興味深い内容で。その中で〈僕は「アルバム」をすべて「ベスト・アルバム」のつもりで作っている、常に一曲一曲を「最高の曲」にして集中していれば、おのずといいアルバムになる。だから、特別コンセプトなどにこだわっていない〉とも仰っていました。ただ、とはいえ、4曲目の“未来の人よ”で突然セリフが入ることで、ふっと気が持っていかれることも含め、古き良き時代から続く〈アルバム〉という感じがするんですよね。最後が“Breath of Bless~すべてのアスリートたちへ”だったりという、ストーリー性を感じられるアルバムでした。光GENJIのファースト・アルバムの素晴らしさもまさに物語的な構造にあると思うんですが」
ASKA「そう感じてくれたらいいなっていうのをそのまま西寺くんが感じてくれたんだね。僕は楽曲というのは並びが大切だと思っていて。ライブでもそうでしょ? それには要素がいくつかあって、テンポと、前の曲がカットアウトで終わるかフェードアウトで終わるか、それと、次の曲の入りがカットインなのかフェードインなのか。それと、前の曲とのコードの違いや、何度離れているとかね、そういう絡み合いで楽曲を埋めていくと、詞は関係ないんだよね」
西寺「いや、ASKAさんほど詞のことを考えている人いない気もしますけどね(笑)」
ASKA「(笑)。アルバムって詞的なことを並べがちじゃん。これを言ったらこれがきてこれにしてって。僕はそれを全く考えない、どちらかというと音のほうを重視するよね」
西寺「あともう一つ、僕がほんとすごいなと思うのは、ASKAさんの歌は、昔からどちらかというと溜め気味というか、リズムに対して粘っこくファンキーに後ろめにくるっていうイメージがあって。それがいわば真似されるオリジナリティにも繋がっていたと思うんですが、その〈タメ〉を年齢によってめちゃくちゃ増してゆくシンガーってよくいるじゃないですか? 歳を取るとどんどん後ろに自分の歌の美味しいポイントを置きにいって、これビートの直線どこやねんっていう(笑)。でも今回のアルバムを聴いて思ったんですけど、ASKAさんはその溜め方が昔と変わっていないというか、年齢を重ねてもめちゃくちゃフレッシュでジューシーで、元々の〈ASKA印〉のまま。そこに驚いたんです。つまりベストな、リズムの〈画素〉の細かい部分を針で刺すようにピンポイントで包みこみながら歌ってこられたからこそ、タメ方が変わらない。だからむしろいまのキャリアを考えるととても若々しいんですよね。聴いていくうちに、この人は一体何歳なんだろう?って思わされる、青春の香りが漂うヴォーカルで」
ASKA「そうだね。西寺くんが言っているのは間違いじゃなくて、僕も子どもの頃、同じことを感じていたよね。どうしてそうなるんだろう?とは思っていたけど、そこは分析してない。だいたいビートものはそうなんだけど、ロックもそうだよ。オンビートよりも、少しほんとにわずかって感じるくらいの遅さ、ちょっと後ろで歌うと楽曲のスピード感が増すんだよね。いわゆる、オケに引っ張られてヴォーカルがついていく。ヴォーカルが引っ張ってしまったらオケが遅く聞こえる。だからそれは気にしてずっとやってきたんだけど、あるときデータものが出てきてから、オンビートで歌うことを目指し始めたんだよね」
西寺「うぉー! こういう話も大好物です(笑)。シンガーとしてはもちろん、ASKAさんの作詞家としての力を、僕は“恋人はワイン色”のカヴァーをして改めて感じまして。特に2番のAに登場する〈オレンジをしぼる横顔 まぶしくて好きだった〉のパート。最初は正直〈なんなんだろう?〉って思ってたんですよ。オレンジをしぼる横顔かぁ……、主人公は彼女と同棲してんのかな?とか、なかなかオレンジ絞った横顔って見ないよなって思うんですけど、お~れん~じを~しぼるぅ~しぼるぅ~って、声を音に乗せたときの感じが問答無用に気持ちよくて(笑)。ピカソの抽象画のように、その女性と過ごした色々なシーンの一瞬がパコーンッとハマる快感もありつつ」
ASKA「この曲を選んでくれてありがとう。(西寺がカバーした『恋人はワイン色』を聴いて……)このワイン色、ニュアンスは感じるね、ありがとう。後でゆっくり聴かせてもらうね」
作ったものはちゃんと聞いてもらいたい。だから、それに値する楽曲をしっかり作っていく
西寺「自分の理想は、CHAGE and ASKAのように純粋に自分の音楽を追求しながら、光GENJIのようなアイドルをプロデュースして老若男女に届けるというか、その二つの動きをパラレルに進めることで」
ASKA「1989年の終わりにイギリスのロンドンに生活の拠点を移してね。戻ってきてから、もう一度向こうで生活したので、合計1年間ノースセントラルのフィンチェリーに住んでいたんだけど、向こうのミュージシャンに対しては日本の業界も含めて、外タレっていう表現の中で委縮するんだよ。僕もそうだった。外タレが日本に来れば武道館だし、来ればライブ会場は満杯だし、やっぱり特別感があるよね。自分たちとはクラスが違う人だと、階級が違う人だと、そんな意識間の中で僕らは育ってきた。それはコンプレックスだよね。でもあるときからロンドンに住むことになって向こうで生活しているうちに、どんどん環境になじむわけでしょ? 向こうのレコーディングスタジオに入るわけでしょ? 隣ではジョージ・マイケルがレコーディングしていたりして……」
西寺「ジョージ・マイケルの大ファンなんですよ(笑)! 時期的に言えば、ジョージ・マイケルはそのとき、『リッスン・ ウィズアウト・プレジュディス』(90)というアルバムを作っていたはずですね。ASKAさんがイギリスに行かれたのは1989年、日本は平成になり、中国では6月に天安門事件があったり、直前の秋にはベルリンの壁崩壊もあったり、一番激動ですよね。イギリスで経験したことは、その後のアルバムにも絶対影響は出ていますよね?」
ASKA「洋楽とか邦楽とかの間仕切りがまったくなくなったよね。だから最近、自分のキャリアとか色々なことを認められるようになってやっと言葉に出せるようになったんだけど、〈やっぱり音楽はワールドワイドでないといけない〉と思っていて。日本という島国の中で、日本は人口が多いからミュージシャンとして成り立っていける人も多かっただろうけど、芸術性なんていう言葉は堅苦しいから使わないけど、でも音楽はやっぱり〈作った作品〉だから、この作品をなぜ日本国内だけのものに、さっきの殻の話と一緒だよね、なぜ殻の中に入れてしまうんだと。自分が作る楽曲は日本以外の国のことも気にしながら作っているよね」
西寺「CHAGE and ASKAの作品は中国でもめちゃくちゃ人気ありますもんね。”万里の河”などもいまの視点で聴くと、オリエンタルでワールドワイドな魅力を持っていて。”ひとり咲き”(79)もイーグルスの”ホテル・カリフォルニア”(76)をアジア人、日本人として再解釈している気もしますし。デビュー時から、ASKAさんが狭い基準で作品を作ってないってことは伝わってきます」
ASKA「音楽は無国籍でありたいと思っているから、そこはすごく考えているよね。でもいまは、若い人たちの音楽も一つの文化が出来上がっていて、聴いてみるとなるほどなというメロディをみんな持っているよね。でもその中で、なるほどなとは思うし、テクニックもあり歌詞もすごくいいんだけど、やっぱり日本なんだよね。作品を作るときに自分たちで知らないうちに枠を作っているのかなと感じていて。これは何度かメディアで話しているんだけど、映画「未知との遭遇」のラストで、結局宇宙人とのコンタクト方法は音階だったりして。それを意識すると、音楽は最大のコンタクト手段。その音楽で言葉の通じない人とコンタクトを取ることを考えたら、音楽はなんでもできるんだよね。人の心を繋ぐこともできるし、動かすこともできる。でも、音楽によって敵対はしない。音楽は繋がり合えて分かり合えるものだから、そういう意味では、音楽をやれたことでいまの自分がいる。それは幸せなことだなと感じているよね」
西寺「『Breath of Bless』の中に“We Love Music”という曲もありますもんね」
ASKA「これは別に音楽に特化した話じゃないんだけど、すべてにおいて〈気を込める〉ってすごく大事なことだと感じていて。ここ数年、いや、数年というと浅いな、もう少し前から気付いているんだけど、言葉であったり音であったり声であったりというのは、ひとつの伝達手段であって、もっとそれを超えるものは〈気〉で、その〈気〉を歌に込められて、まさに込めたものがステージ上でどれだけ再現できるかどうかで、残る人残らない人の振り分けができるよね。これはね、ステージングがうまいどうこうのレベルではなくて、いま自分がどれだけのことを感じて分かっていて、それを分かっている自分にステージで到達できるか、それ以上のものができるか、それって〈気〉だから。それこそテクニックだったら、誰が叩いても誰が弾いても一緒、上手な人はいっぱいいるからね。だからここにきての決めの一発の〈気〉が大事。そこで伝わるものは大きいはずだと思っているんだ」
西寺「僕は今回のアルバムを聴いて、先ほどASKAさんが仰られた数学という部分を感じて。〈気〉と、さっき仰っていた〈数学〉的な計算、相反するように思えるその両面から答えを探す冷静さが、すごいなと」
ASKA「そうだね。〈込めるもの〉がしっかりできていないと、作品が作品として届いていかないから。さっきの話で、どちらかというと音にこだわると言ったけど、でもやっぱり最後には詞だよね。歌詞って何気に聞いている中で聞き逃すことがほとんどでしょ。車に乗っていても何するにしても、聞こえてくるのはメロディだよ。歌詞は大きくないからさ。でも、そこに自分で言葉を繋げて、これくらいでいいだろうと思ったものはこれくらいしか届かない。だからしっかり書いて自分の中で満足できたものは、どこかで何かに触れるから。そこは大切にしようと思っている」
西寺「詞の書き直しはされるんですか?」
ASKA「もちろんするよ。でも昔は1週間、10日、長いときは1か月かかっていた詞が、ここ4~5年は4時間以上を超えてないよね」
西寺「集中されているんですね」
ASKA「自分の中で色々なことがあったから、どこかを一周して原点に帰ってきたような気持ちにもなるんだけど、すごく言葉を選ぶスピードが早くなったかな」
西寺「僕は『Breath of Bless』 を聴かせていただいて、すごく自然というかナチュラルに聴こえたんです。今回の曲数の多さもそうですけど、ここ5~6年のディスコグラフィーを見ても、ベストがあるにしてもめちゃくちゃリリースされているじゃないですか。ASKAさんは、いまちょうど整ってきたというか、やりたいことがすーっと素直にできる状況なのかな、とも思ったりして。技術の進歩もあると思うんですけど、ASKAさんのやりたいことと、世の中がようやくこう……。もちろん合っているときもあったと思うんですけど、めちゃくちゃ合っていたからあれだけヒット曲が出たんだと思うんですけど、またそれとは違う意味で、ASKAさんの作りたい作品が素直に届いているということを、このアルバムを聴いてすごく感じました」
ASKA「僕たちはプロだからね。ポップスであろうが、ファンクであろうがロックであろうが、ブルースであろうが、カントリーでもいいけど、作っておいていくら自分が満足して語ったところで、相手が受け付けられなかったら聴き流してしまうだけでしょ。それは寂しいよね。やっぱり作ったものはちゃんと聴いてもらいたい。だから、それに値する楽曲をしっかり作っていかなきゃ。プロなんだから」
西寺「そう言えば、色々まだ聞きたいこともありました。昔テレビで見たんですけど、ASKAさんはポール・マッカートニーと対談されていましたよね」
ASKA「実はポールと会う前、89年にロンドンに行ったときに、娘のステラ・マッカートニーと先に知り合っているんだよ。そしてポールが日本に来たときにホテルのファミリーパーティーに呼ばれて、そこでポールに家族を紹介されて、そこでステラが出てきてね。初めましてみたいな会話から、いや実は前に会ったことがあるんだよ、ロンドンで会った日本人だよって言ったら、ステラが思い出してくれて。そうしたらポールが、なんだ知り合いだったのかって、そんなやり取りがあってね。そして、そこで会ったポールのバンドメンバーが、僕が後に実験アルバムのレコーディングでロンドンに行ったときに、偶然にもスタジオに呼んだメンバーだらけで。また彼らに、あのときの日本人だよって言ったりして。ポール・マッカートニーほど、ポップやロックの中にあれほどのアカデミックさを持ち込んだ人はいないよね。ジョン・レノンは、存在感と、カリスマ性、声のよさ、もちろんメロディもいい、ジョンはロック寄りのかっこよさだよね。ポールのかっこよさはロック寄りなところもありながらもメロディアスでクラシカルなところ」
西寺「そうかも知れないですね」
ASKA「楽典的にはポール・マッカートニーなんだけど、やっぱり、ポールとジョンの二人が合わさったときのビートルズの魅力は素晴らしいものがあるよね」
西寺「いやー、でも僕が好きなアーティストたちの〈第一次情報〉と言いますか、直接のエピソードがどんどん出てくることに本当に感動しています。ただ、確かにアメリカやイギリスのスーパースターだからと言って萎縮することはなくて。当時の音楽市場の規模でいっても、日本というマーケットは大きかったですから」
ASKA「世界第2位だよね」
西寺「そうですよね。プリンスやマイケル・ジャクソン、ポールもそうですけど、そういうアーティストと実際にCHAGE and ASKAが肩を並べていたというのは、ピリッとするだろうし、負けてはいけないと思うだろうし。ASKAさんがイギリスから日本に戻って、普通の気持ちでいられるわけありませんよね。彼らと戦わなきゃいけない、というか……」
ASKA「負けてはいけないというよりも、戦うというよりも、楽曲に関しては作るうえではなんの遜色もないよ」
西寺「今回、ASKAさんとお話しできたことで、大きな刺激をいただきました」
ASKA「時代が自己発信できる時代だからね、色々なところで使われちゃいけない気持ちが大きくて、色々なものを使わなければ、使う側にならなければ、まずはそれを考えるよね。使われるときには自分から愛情をもって使われたい、使われにいきたいと思う。それ以外の部分は、自分が使っていかないと。これから日本の音楽はますますインディペンデントしていくだろうね」
