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コラム

アレクシス・フレンチ(Alexis Ffrench)のピアノを聴いて思ったこと

音楽が必要とされる時はいつか

アレクシス・フレンチ(Alexis Ffrench)のピアノを聴いて思ったこと

音楽が必要とされる時
アレクシス・フレンチのピアノを聴いて思ったこと

 映画『人魚の眠る家』をご覧になった方は、そこでひびいていたピアノの音、ピアノの音楽を記憶されているだろうか。生と死、臓器移植、テクノロジーが人びとのあいだに広げてゆく波紋が描かれ、ところどころに緊迫する空気がながれる。それでも、見終わって何日かすると、そのドラマ性というよりも、あるスタティックな情景とともに、想いおこされるのはある静けさ、その静けさのなかでぽつりぽつりと単音をつないでゆくピアノの音と、無機質な機械音。はたしてこれは、わたしだけの印象であり記憶、なのか、どうか。

 映画は東野圭吾のデビュー30周年を記念する同名の小説をもとにし、堤幸彦が監督、音楽の担当がアレクシス・フレンチ。

 映画のなか、音楽はストーリーを効果的に演出したりはしない。いたずらにもりあげたりしない。では、冷静な、距離をもった音楽なのか、といえば、そんなこともない。距離はある。あるのだが、これ以上は近づかない、近づいてはいけない、といった手のさしのべ方、か。その距離感は、映画をみているものそれぞれに、異なったはたらき方をする。アレクシス・フレンチは、音楽が感情と結びつくものだということをよくわかっている。だからこそ、距離をとる。距離をとって、音楽に巻きこむようなことはしない。美の絶対性ではなく、キレイやカワイイの主観性に重心をおく。これは批難ではない。そうではなくて、いまの音楽のあり方のひとつで、それをこのミュージシャンが実践しているのだとみている。

 似たような音楽はずっとあった。ジャズ系のピアニストでも、イージー・リスニングでも、映画やTVの音楽でも、あるいは、ヒーリングというような呼び方をされる音楽でも。ピアノという楽器をつかいながら、やわらかいひびきをつくりだす。シンプルなメロディとハーモニー。音楽がそこにあることに違和感がない。音楽の存在感をやたらと押しつけてこない。

 この1970年生まれのジャマイカ系ミュージシャンが育ったのはアメリカ合衆国ではなく、ヨーロッパ、UK。ちょっと見回してみると、マックス・リヒターが1966年、ヨハン・ヨハンソンが1969年の生まれ。もっと前後に延ばしてみるなら、ルドヴィコ・エイナウディが1955年、オーラヴル・アルナルズが1986年の生まれ。いわば、「ポスト・クラシカル」と呼ばれたりするミュージシャンたちと重なる部分が多い。

 ソニーからリリースされた1枚目『エヴォリューション』(2018)、最新作『ドリームランド』(2020)、ともに、ピアノという楽器の特性を生かした音楽が中心になる。打鍵して発音する。音はすぐ減衰する。その時のながれのなかで紡がれるメロディとハーモニー。ややこしいことはない。ドラマティックな展開も回避される。あるおなじようなひびきだからこそ、サブリミナルにはたらきかけてくる、とでも言ったらいいか。メロディやハーモニーをなぞったりするための音楽ではなく、そこでなっていて、それがいつしか心身の環境になっていることをこそ望んでいるようだ。そしてそれは、先に引いた作曲家たちと遠くない。音楽が録音・再生技術の遍在によって環境化していることとつながっている。

 スタイルは『エヴォリューション』以前から、おそらく、変わっていない。ピアノを弾き、音楽を紡ぐ。あるキレイさをつくりだしつつ、故意にドラマをつくらないことで、リスナーの自由を確保する。それは、エモーショナルで心身を揺さぶるほかの多くの音楽とはべつのあり方で、アレクシス・フレンチはそのことを充分に意識している。

 『ドリームランド』は、『エヴォリューション』よりアルバムの楽曲の変化がよりわかりやすく示される。チェロ・ソロがフィーチャーされ、ハープの高音がピアノとユニゾンし、アコースティック・ギターとピアノの音色のコントラストが効果的にひびき、ゴスペルのコーラスが、オーケストラが、ピアノ・ソロの波紋を広げる。ベートーヴェン《エリーゼのために》のみごとな改変=解釈もある。

 そう、西洋音楽は、古くから、いくつもの楽曲、曲調をセットにして提示することがよくあった。組曲は言うに及ばず、多楽章形式の作品がそうだし、20世紀になってからはアルバムという録音媒体がそのように構成されてきた。緩急や調性、楽器編成といったものを配慮してコントラストをつくる。そして、ただ複数の語りを実現する。そうした立体的な提示が、ストリーミング主流になるとくずれてくる。ひとつひとつの楽曲はもちろん違う。違うけれども、共通するものが多くある。そのような楽曲がひとつのアルバムとして提供されたもののなかにならぶ。むしろその共通性が、ランダムに聴いても担保されているとでも言ったらいい。

 それは21世紀現在のストリーミング的聴取とも重なってくる。いま、たとえばすこし前までのように、音楽を聴こうとひじょうに意識的にしている人がどのくらいいるか。レコードをターンテーブルにのせ、ステレオのスピーカーの前で耳をこらし、一定時間、ほかのことはしないでなっている音に耳をかたむける。こうした聴き方がどのくらいされているのか、わからない。何かをしながら音楽がながれている。音楽はいろいろなものとともにある。そのなかで、ストーリーに付随して、ストーリーとともに盛り上がったり沈んだり、というようなのがある一方、音楽がないことがどこか居心地がわるくなってしまっているような場面というのがある。音楽は、そうしたときに、必要とされる。

 アレクシス・フレンチを、ただ音楽として享受するだけではなく、いまという時代、文脈からとらえてみる。すると、わたし、わたしたちが10年前20年前と、心身がどう変化してきているか、していないか、が確かめられるかもしれない。

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