2020年12月31日にリリースされた2枚組CD『LOST AARAAF』には灰野敬二のミュージシャンとして最初期の活動が記録されている。灰野自ら〈ロックを継承した唯一のバンド〉〈いちばんシンプルなパンク〉と表現するロスト・アラーフだが、常に〈今〉を追求しつづけているアーティストとして自他ともに認められている灰野にとっては、過去よりも現在の活動の方が遥かに重要であることは間違いない。とはいえ70年代日本のロックの黎明期におけるロスト・アラーフの活動が、現在の灰野敬二の音楽の基本にあることは確かである。40年以上昔の話なので正確に覚えているわけではないと前置きする灰野に話を聞いた。
やりたいから乱入する
――ロスト・アラーフ加入前に参加した〈実況録音〉はブルース・ロックのバンドとのことですが、加入の経緯と活動内容を教えてください。
「加入の経緯は思い出せない。高校を辞めた後に、都内の別の高校に行っている友達に誘われて彼の同級生のバンドに参加して、彼の高校の学園祭で1回だけライブをした。学外のメンバーが参加するのは異例のことで少し揉めたけど。多分その時のライブを実況録音のドラマーの高橋さんが観てくれて誘ってくれたんじゃないかな。錦糸町でリーダーの伊藤(寿雄)さんを紹介してもらった記憶がある。
実況録音はフリートウッド・マックみたいなブルース・ロックをやっていた。ベースはのちにカルマン・マキ&OZに入る川上シゲさんだった。ビアホールやジャズ喫茶で演奏したけど、音がでかい、ヴォーカルがわけわからん、と言われていつも途中でライブを中断させされた」
――ロスト・アラーフに加入する前に、南正人さんやブルース・クリエイションのライブに飛び入りしていたそうですね。どんな経緯で飛び入りしたのでしょうか?
「飛び入りするのに経緯なんかないよ。やりたいから飛び入りした、というより乱入だね。歌う前に一言断りを入れたけどね。対談※でも話したけど、南正人さんの〈魂のコンサート〉に飛び入りした時、南さんは学生服のオレのヴォーカルを聴いて〈カッコいいね!〉って褒めてくれた。南さん、今までいろいろどうもありがとうございます。あまり会う機会はありませんでしたが、ご冥福をお祈りします。
ブルース・クリエイションは布谷(文夫)さんが辞めてヴォーカリストが不在の頃で〈演奏はいいのにヴォーカルがいないじゃん、それじゃオレが歌っちゃおう〉と思って乱入した」
ロック、フリー・ジャズ、現代音楽
――渋谷のヤマハに行ってレコードを試聴していたとのことですが、どんなふうにレコードを選んだのでしょうか? 当たりだったのはどんなレコードですか?
「当時輸入盤を扱っていた店は、渋谷ヤマハの他に銀座・山野楽器や桜上水のドンキーくらいしか知らなかった。とにかく自分が聴いたことがないもの、『ミュージック・ライフ』に載っていないものを片っ端から聴いた。特にハードなもの、ロリー・ギャラガーがいたテイストとか、当時は誰も知らなかったね。
それから変わっているもの。インクレディブル・ストリング・バンドを聴いて普通のロック・バンドとは違う楽器編成に興味を持った。どっちが先か忘れたけど、サード・イヤー・バンドに出会って衝撃を受けたのもその頃。この頃買ったレコードは今でも持っているよ」
――フリー・ジャズを教えてくれたのは川越のレコード屋だとお聞きしましたが、ロック少年だった灰野さんはショックを受けましたか?
「音羽屋という一見のお客はお断りという雰囲気のレコード屋があって、その店長からフリー・ジャズのレコードを聴かせてもらったけど、そのときはグチャグチャしてると思っただけでピンと来なかった。
それより渋谷ヤマハのレコード・セールで傷あり600円で買ったオリヴィエ・メシアン『世の終わりのための四重奏曲』は大ショックだった。当時の自分が好きになれるものがここにあった!と感動した。その頃ラジオでNHK FMの『現代の音楽』や『バロック音楽のたのしみ』を聴いていた。電波が悪くて雑音交じりだったのをテープ・レコーダーで録音して聴いていた。
他にパティ・ウォーターズもセールで買った。これも傷ありだったけど、この2枚は買い直す気になれないね。ノイズも含めて記憶に馴染んでいるから」