庵野秀明(企画/脚本/総監修)と樋口真嗣(監督)という、大ヒット作「シン・ゴジラ」(2016年)の製作陣が再結集して作り上げた映画「シン・ウルトラマン」。公開後8日間で観客動員数が100万人、興行収入が15億円を突破するなど、大きな旋風を巻き起こしている。ファンや批評家がすでに多角的な視点から語っている本作だが、ここでは米津玄師が書き下ろしたことで話題の主題歌“M八七”に注目したい。s.h.i.が、“M八七”が「シン・ウルトラマン」の見事な主題歌である意味や意義を論じる。 *Mikiki編集部
米津玄師“M八七”は「シン・ウルトラマン」の最高の副読本
本稿の趣旨は、米津玄師“M八七”は映画「シン・ウルトラマン」の最高の副読本であり、ある意味では真エンディングでさえある、というものである。これを説明するにあたり、ストーリーについての具体的な話が少なからず出てくるので、観る前に一切の情報を入れたくない場合は読まない方がいいかもしれない。ただ、本作は話の筋を知ったからといって面白さが損なわれるタイプの映画ではない。ウルトラマンの銀色の肌やガボラのドリルなどにみられるラバー/ビニールの異常な官能美、ザラブ星人やメフィラス星人の新造形の格好良さ、役者陣の素晴らしい演技といった、〈どう形にするか〉の要素の方が妙味の多くを担っているため、繰り返し観ても味は落ちないし、幾重にも練られた作り込みを理解するほどに感動が増していく。本稿もそうしたことの一助となるため書かれたもの。お役に立てれば幸いである。
物語を補完しテーマを体現する〈真エンディング〉
既に各所で言われているように、「シン・ウルトラマン」の主題歌として作られた“M八七”は、映画を観た人々から極めて高い評価を得ている。曰く、〈ウルトラマンへの解像度が高すぎてもはやネタバレに限りなく近い〉、〈イメージソングを作る天才〉、〈人生の大半をウルトラマンと過ごした俺よりもウルトラマンの事を解っている歌詞書きやがって〉など。それも当然の反応で、歌詞は言葉少なで言い回しも平易なのにもかかわらず、劇中の出来事とその解釈としても、視聴者各個人の思い入れの表現としても、ダブル〜トリプルミーニング的に通用するようになっているのである。
例えば、冒頭のAメロ〈遥か空の星が ひどく輝いて見えたから/僕は震えながら その光を追いかけた〉は、ウルトラマンシリーズに対する視聴者の思い入れとしても、本作におけるウルトラマン=リピアから神永(リピアと融合)への思いを表したものとしても読める。また、2番のAメロ〈いまに枯れる花が 最後に僕に語りかけた/「姿見えなくとも 遥か先で見守っている」と〉は、映画のラストで神永に命を与えたリピア(ヒメイワダレソウの別名、花言葉は絆や誠実)の姿を描いたものとしても、本作に限らないもっと普遍的な出会いと別れの話としても読むことができる。
それに続く2番サビの〈君が望むなら それは強く応えてくれるのだ〉は、人類からウルトラマンに向ける想いと、ウルトラマンから人類に向ける想い、そのいずれにも当てはまる。そして、アウトロの〈微かに笑え あの星のように〉は、オリジナルのデザイナーである成田亨がモチーフとした仏像のアルカイックスマイルや「本当に強い人間はね、戦う時かすかに笑うと思うんですよ」という成田の発言を踏まえたものと思われるし、星=遠さを示唆しつつ、その上でのコミュニケーション可能性をも示している。
以上のような歌詞は、リピアとゾーフィの会話の直後に地上で目覚めるシーンに変わっていきなりエンドロール、という映画本編の淡白な終わり方を補完するものでもあるだろう。リピアがゾーフィと別れてから地上に戻るまでの空白を埋め、作品テーマの核を明晰に伝えてみせるという意味で、実質的な真エンディングになっているとさえ言える。そう考えると、ラストシーンがそっけないのは、本編の中に主題歌を入れるわけにはいかないができる限り本編から離したくない、という判断によるものでもあるのかもしれない。樋口真嗣監督が言うところの「ウルトラマンが人間を受け入れ、人間もウルトラマンを受け入れるまでの物語」を見事に体現し、その上で、ウルトラマンを離れても成立する普遍的なソングにもなっている。本当に見事な仕上がりである。