観る度に感想が〈変態〉してゆく超話題作!

 観る者の反射神経が問われる大作だ。多くの場面で専門用語と永田町言語が豪雨の如く降りしきる――その〈思ったより想定外すぎる〉会話劇の高速感は、うかうかするとその場でふり落されかねない勢いだ。聞けば、庵野脚本は通常換算で3時間超に相当し、刈り込み要請への代案が〈超早口〉による初志貫徹(詰め込み)だったとか。結果、専門用語の羅列を良しとし、大量な情報処理の効率性を最優先させ、情感がない/内面がない(描かない)との批判も意に介さない監督の手法と奏功したのだから面白い。同作の惹句も〈現実(ニッポン)対虚構(ゴジラ)〉と挑発な内容だが、既視感溢れる〈選択の選択〉という速射劇に対し、観る側がいちいちツッコミを挟む余裕は凡そない。それこそ矢継ぎ早の付箋よろしく、庵野お得意の極太明朝体で脳内メモを貼り続け、折々の問題意識を〈保留〉〈中略〉にして先へ進むしかない。じぶんのメモの一例が、岡井隆が'60安保改定時に詠んだ〈海こえてかなしき婚をあせりたる権力のやわらかき部分見ゆ〉という一首だが、観劇後、スマホを打ち込んでは自らの追想を整理した御同輩も少なくないだろう。

庵野秀明, 樋口真嗣 『シン・ゴジラ』 東宝(2017)

 平日の午後、わざわざ選んで足を運んだ旧・日劇(TOHOシネマズ日劇)の館内はリタイア組と思しき年代層が大勢を占めていた。かくいうじぶんもゴジラと自衛隊と同じ1954年生まれの超還暦組、いわば〈その後の同級生対決〉に立ちあうような立場だ。封切中のゴジラ映画を銀幕鑑賞すること自体が1964年(キングギドラに幻惑された「三大怪獣 地球最大の決戦」)以来だが、正直、勝手知ったる旧知作的な油断があったのも否めない。が、そこは名うての庵野版だ。ゴジラは昔のゴジラならず、どこか憎めない昭和版の片鱗は容赦なく削がれ、留まることを知らぬ変態・移動・破壊の前には暮らしの機微を描く隙も皆無。事件は現場のみでなく〈会議室でも起きている〉というオペレーションルーム映画(©速水建朗)として戦後世代の眼前にどんと投げ出された。いや、上映早々からふり落されまいと観る側が身構える、あの緊迫感に世代も年齢も関係ないだろう。119分間、いったいじぶんは何を観たのだろうか…ふり返る余裕が訪れたのは観劇後、東京駅方面の上空を仰ぎながらシン・ゴジラの姿を幻視してからだ。その途方もなくリアルな虚像に、現実のほうが恐る恐る近づいては肩を凭れる……今春、待望のDVDが発売される。あの日視たものや見落としたもの、微睡の尾に一瞬触れたものや、実際は映らなかった者共にも再見できるだろう!