
ネタバレ抵触を覚悟の上で、そのリハ場面を紹介すると、ブランシェット扮するリディアは、アメリカ人指揮者らしく英語とドイツ語のちゃんぽんでオケに指示を与え、第4楽章“アダージェット”を指揮する時は「Vergessen Sie Visconti(ヴィスコンティのことは忘れて下さい)」、つまりこの曲が使われた映画「ベニスに死す」のイメージにとらわれないでと、ジョークを飛ばす(ちなみにこのセリフは、本作のアメリカ公開版・日本公開版ともに字幕が付けられていない)。そして第1楽章“葬送行進曲”をリハーサルする時、冒頭のトランペット・ソロをどうしても遠くから聴こえるようにしたいリディアは、舞台袖からトランペットを吹かせるアイディアを思いつき、それを実行する。マーラー愛好家ならご存知のように、第5番のスコアにはそんな指示は書かれていないし、実演でそれを試した例も、おそらくほとんど存在しないだろう。そのリディアの解釈に賛同するかどうかは別にして、少なくともマーラーに拘りのある指揮者を主人公にした映画として見た場合、実に説得力ある描き方だと思う。
このリディア、物語の中では指揮活動の合間を縫って現代音楽の作曲に取り組んでいる設定になっている。僕が個人的に面白いと思ったのは、作曲に苦しむリディアが、救急車のサイレンのような現実音を音楽の中に取り込み始めるエピソードだ。これはマーラーの作曲の方法論を彷彿させると同時に、マーラーが高く評価したアイヴスにも近い。このリディアの新作は、本編の音楽を担当したヒドゥル・グドナドッティルが作曲しているのだが、サントラ盤に収録されたリディアの新作の完成版“ペトラのために”を聴けば、実際にマーラーのような、アイヴスのような音楽を確認することができるだろう。
ちなみにグドナドッティルは、その曲以外では実質的に1曲しかスコアを書いていない。サントラ盤収録の“モルタル”という曲がそれだが、モルタル(mortar)とは漆喰、つまり〈剥がれ落ちる漆喰〉という裏の意味が込められている。しかも驚くべきことに、mortarという単語の綴りには、主人公リディア・ターの姓であるTárと、フランス語で破滅や死を意味するmortが含まれているのである! なぜ主人公がターという不思議な姓を持ち、この映画が「TAR/ター」というタイトルを持つのか、ここまで書けば読者はおわかりだろう。本作は、キューブリックがHAL 9000の異常過程を描いたリアリズムさながらに、スター指揮者のブランドという〈漆喰〉が剥がれ落ちる過程を冷徹に描いたスリラーなのである。したがって、そのラストでは、「2001年宇宙の旅」にも匹敵する驚天動地の光景を目撃することになるだろう。
MOVIE INFORMATION
「TAR/ター」
監督・脚本・製作:トッド・フィールド「イン・ザ・ベッドルーム」「リトル・チルドレン」
出演:ケイト・ブランシェット/ノエミ・メルラン/ニーナ・ホス/ジュリアン・グローヴァー/マーク・ストロング
音楽:ヒドゥル・グドナドッティル「ジョーカー」(アカデミー賞作曲賞受賞)
撮影:フロリアン・ホーフマイスター
編集:モニカ・ヴィッリ
原題:TĀR/アメリカ/2022年/カラー/シネスコ/5.1chデジタル/159分/字幕翻訳:石田泰子
配給:ギャガ
©2022 FOCUS FEATURES LLC.
2023年5月12日(金)TOHOシネマズ 日比谷ほか全国公開
https://gaga.ne.jp/TAR/