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宣伝なしで大ヒット、宮﨑駿の新作「君たちはどう生きるか」

2013年の映画「風立ちぬ」で長編映画の製作から引退することを明言した宮﨑駿が、それを翻して10年ぶりに新作「君たちはどう生きるか」を完成させた(ちなみに、同作では宮〈崎〉駿ではなく宮〈﨑〉駿というのが正式表記になっているので、本稿でもそれに倣う)。

7月14日、一枚のポスター以外は情報が明かされず、ほとんど宣伝がないままに公開されながらも、10日間で興行収入が36億円を、観客動員数が232万人を突破。2023年は「名探偵コナン 黒鉄の魚影(サブマリン)」や「ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー」といった大ヒット作が多い年だが、「君たちはどう生きるか」もまちがいなく今年を代表する映画になりそうだ。一本の映画を巡って、数日でこれだけの盛り上がりを見せるなんてなかなかないことで、まさにお祭り状態である。

以下、そんな「君たちはどう生きるか」の内容に触れながら、主題歌である米津玄師の“地球儀”についても論じていきたいと思う。ネタバレ全開なので、未見の方はご注意いただきたい。

 

十人十色の視点

「君たちはどう生きるか」は、宮﨑駿とスタジオジブリのフィルモグラフィの総決算にして、ジブリワールド的な側面もある映画だと感じた。映画を見ていると、めくるめくジブリワールドに迎え入れられる構造になっているのだ。過去の作品の映像的なセルフオマージュや引用、構造的な類似は多く、宮﨑駿およびジブリファンにはたまらないところがある。

また、過去の作品に親しんできた者も、あるいは見てこなかった者も、これまでのジブリワークスを訪れてみたくなるのも特徴だ。問いかけになっているタイトルにしても、映画を見たあとに新しい景色が広がっていくような作りにしても、観客への贈り物のような趣がある。

ジブリワールドを舞台に展開される冒険活劇であるのと同時に、かなり観念的な映画でもあるのが、「君たちはどう生きるか」の厄介かつおもしろいところだろう。多くの一般観客だけでなく、村上隆や千葉雅也、高橋源一郎といった著名人や表現者たちが感想、考察、分析を熱心に発信しているのは、SNSやnoteなどを見ればわかるとおり。しかも、キャラクターや登場するものに象徴や暗喩を見る者、ジブリ関係者の投影を見る者、現在82歳である宮﨑駿の考えや思いを見る者と、「君たちはどう生きるか」の見方は十人十色だ。

おそらく、映画そのものに答えはない。だから、もしかしたら、この映画を見て感じ、考えることは、自分自身を見つめることと同義なのかもしれない。「君たちはどう生きるか」をどう見るか、そこに何を見るかは、観客一人ひとりにかかっている。

 

美しいアニメ=虚構の終わり

そのように分厚く多層的に入り組んだ映画の中から、表面的なテーマのひとつを私の視点から取り出してみると、アニメという虚構に対する(宮﨑駿の)複雑な態度が挙げられる。宮﨑駿の有名なエピソードで、〈子どもが「となりのトトロ」をビデオで繰り返し見ている〉という親からの手紙に〈ずっと見続けたらドングリ拾いに行かない〉〈見るのは年に一回にしてほしい〉と危機感を覚えた、というものがある(養老孟司、宮崎駿「虫眼とアニ眼」)。自分が作り上げたもの、その受容のされ方に対して、ネガティブなものを含む複雑な感情を抱いているのだ。

そのあたりが「君たちはどう生きるか」で象徴的に描かれているのが、大叔父にまつわる一連のエピソードだろう。大叔父は、空から降ってきた石塔の周りに建造物を作り上げ、書物で埋め尽くされた、閉鎖的で迷宮のような大伽藍の世界を作り上げた。また、塔の〈下の世界〉で彼は、〈13個の石の積み木〉(しかも、それは〈穢れていない石〉だ)によって世界の均衡を保っている。これらが作家そのもの、アニメ、ひいてはフィクションの創作の暗喩であることは、容易に見てとれる。

結局、〈積み木〉は崩れ去って、美しく幻想的な〈下の世界〉も崩壊してしまう。主人公の牧眞人はそこから脱出して現実世界に戻ってくるのだが、それは宮﨑駿やスタジオジブリが築き上げてきた〈御伽の国〉が終わったことを告げているように見える。虚構の世界が終わり、その先に現実がある、というように。そこに、上で引いた宮﨑駿のアニメに対する態度が重なるのだ。

しかし、眞人は、(キリコばあやの人形と)〈石〉を持ち帰っており、それによって〈下の世界〉で起こったことを多少は思い出せる。虚構の世界で得た種のようなものを心に宿したまま、現実を生きていくことができるのだ。それは、〈虚構に耽溺するのなんてやめて、現実に帰れ〉などという単純で紋切り型の結末ではない。

そして、ここでの眞人は、映画館で映画を見たあとの私たち観客のように見えるし、自作への執着や思いを断ち切って、82歳にしてさらに次の世界へと突き進んでいく宮﨑駿自身のようにも見える。

 

真の継承とは

もうひとつ触れておきたいテーマは、継承の問題だ。

大叔父は眞人に〈積み木〉を積み上げる作業を引き継いでほしいと頼むのだが、いま書いたとおり、それは実現しない。宮﨑駿とジブリがこれまでに築き上げてきた美しく幻想的な世界は、一旦終わりを迎えて閉ざされ、そのままの形では誰にも継承されないのだ。

この大叔父を宮﨑駿自身と見る者と、宮﨑駿が尊敬する先輩でありライバルでもあった故・高畑勲と見る者とで、観客の間では意見が分かれているところではあるが(〈13個〉に監督作品数を見る意見が多い)、それはさておき、鍵は眞人が〈石〉を持ち帰ったことである。

大叔父がこれまでに作り上げた世界を保つために彼と同じことをするのを、眞人は拒んだ。そして、(インコ大王の暴走もあって)〈下の世界〉と塔は壊れてなくなった。大叔父が望んだとおりの継承はなされなかったが、眞人は〈下の世界〉で自分なりに得たものをポケットの中に忍ばせている。そこにこそ、創作における本当の、真の継承のようなものが表れているように感じるのだ。

過去の偉大な人物が作り上げた偉大な作品を額縁やケースの中に入れて大切に保管すること、それらをこれまでどおりの綺麗な状態で保存することは、本当の継承だと言えるのだろうか? そうではなく、そこから自分の視点で切り取った一部分、欠片を自分のものにして、自分なりに表現していくことの方が、継承だと言えるのではないだろうか? 観客だって、表現や創作をせずとも、その欠片とともに自らの人生を生きていくことはできる。継承というものに対するそんな前向きなメッセージを、「君たちはどう生きるか」に感じた。