八代亜紀が2023年12月30日が死去したことが、2024年1月9日に発表された。演歌や歌謡曲、ブルースやジャズの歌い手として、半世紀にわたって親しまれてきたハスキーボイスの歌い手の旅立ちに、日本中が悲しみに包まれた。そんな彼女の功績を讃えて、シンガーソングライターの見汐麻衣に追悼文を寄稿してもらった。 *Mikiki編集部


 

2022年12月、熊本県八代(やつしろ)市にあるキャバレーニュー白馬に初めて足を運んだ。

1958年(昭和33年)の創業から現在まで現役のキャバレーだ。目的は坂本慎太郎のライブだったが、以前から八代市にも、キャバレーニュー白馬にも訪れてみたいと思っていた。八代市は八代亜紀の生まれ故郷であり、ニュー白馬は16歳だった八代亜紀がデビュー前に初めて人様の前でうたった初舞台の場所でもある(年齢をごまかしてうたっていることが父親にすぐに見つかり、3回だけのステージだったというが、本人は「歌手としての自信を持った大事な場所です」と過去に朝日新聞のインタビューで語っていた)。

目的がふたつ同時に叶った私には感慨深い一夜であった。

初めて生で観た(聴いた)歌手が八代亜紀だった。地元の競艇場にて1984年辺りだったかと思う。

私の母が競艇場で舟券を売る仕事に従事していたこともあり、子守がいない時やむを得ず一緒に連れていかれる日もあれば、催しものがある時、祖母に連れられ訪れることがあった。

1980年代前半の競艇場は現在のように老若男女が気軽に訪れるような開けた雰囲気の場所ではなかった。主に中年男性や爺さん達が多かった。身銭を握りしめ、人生そのものを賭けたかのような真剣な眼差しで、毎レース中は殺気立った気配が漂っていたのだが私はそれが嫌いではなかった。

人間が本当に悔しがる時は四つん這いになり、拳を地面に何度も叩きつけるのか。本当に嬉しい時は歓喜を超え狂気ともとれる程の唸り声をあげるのかなどと、普段あまり目にすることのない大人の側面を垣間見られることが新鮮だった。

別の日、私は祖母に連れられて競艇場にいた。八代亜紀が営業でうたいにくるということだった。

競争水面を一望できる一般席は客で埋まっている。水面の上、ボートに乗って登場した八代亜紀は紫と銀のスパンコールドレスを身に纏い“舟唄”をうたった。艶やかな出で立ちと生の歌声に子供だった私でさえ胸を打たれた。いつもは野次や怒声で五月蝿い場内が水を打ったようにシンとしていた。一筋縄ではいかないような輩達が真剣に聴いている姿が印象的だった。隣に座っていた爺さんは「あん人はすごかねぇ!」と呟きながらカップ酒を飲み、私にイカ焼きをご馳走してくれた。祖母が小さく小さく拍手をしながら涙ぐんでいたが私は見て見ぬふりをした。

また別の日、ブラウン管越しに八代亜紀がうたいだすと当時の周りの大人達はお喋りを止め聴き入っていた。お茶の間や盛場の有線、ラジオなどを通して歌謡曲や演歌、流行歌は年齢問わず親しまれ、日々の糧(かて)となり、時代を映す鏡でもあったのではないか。歌には聴く側の心持ちを受け入れる余白があり、その余白をも表現できる八代亜紀の歌声は大人達の心のささくれ、いかんともしがたい日々を歌で優しく撫でていたのだと思う。

2024年1月9日、訃報を知った晩。頭の中に真っ先に浮かんだのは競艇場でうたっていた八代亜紀と当時を懸命に生きていた大人達の姿だった。私はひとり晩酌をしながら『夜のアルバム』(2012年、小西康陽プロデュース作品)を聴いた。このアルバムは大人になった私が歌手・八代亜紀を再び意識して聴き出すようになった1枚である。熊本から上京し、銀座のナイトクラブでうたっていた頃の八代亜紀をもちろん私は知らないけれど、このアルバムを聴いていると、その頃から変わらないであろう音楽に対する思い、歌手としての矜持を感じることができる。演奏が歌の為の伴奏ではないという当たり前のことがリズムをグルーヴに変える歌唱からも伝わってくる。その声色も相まって、敬愛してきた音楽、培ってきたものが至極シンプルに濁りなく内包されている。聴けば聴くほど味わいは深まるばかりで、酒場で聴くとなお沁みてくる。

歌手に限らずどんな生業でも主体性を持って良いものを作りたいと考えることは自然なことだと思うのだが、八代亜紀の歌声を聴いているとそんなことは大前提で、本来独立して存在するはずの客体性を重んじていた歌手なのではないかという思いが頭をよぎると共に歌が胸に迫る。

“CRY ME A RIVER”が流れだす。その歌声が発せられる為の肉体はもうこの世に存在しないのだという現実にさめざめと涙を流しながら再び酒を煽る。ただ、この世に残された歌声はスピーカーを通して空気に触れる度、消えることのない残り香の如くいつでも立ち上らせることができる。