ダモ鈴木が2024年2月9日に死去した。
ドイツのロックバンド、カンおよびそのレーベルであるスプーンのFacebookで、ダモ鈴木が死去したことが発表された。葬儀の詳細は後日伝えられるという。74歳だった。
ダモ鈴木こと鈴木健二は1950年、日本の神奈川・大磯生まれで、厚木で育った。高校を中退後、アメリカや東南アジア、ヨーロッパを放浪。70年、ボーカリストのマルコム・ムーニーが脱退したカンのホルガー・シューカイとヤキ・リーベツァイトがミュンヘンの路上で〈太陽に向かって呪文を唱えていた〉ダモ鈴木を誘い、その日のライブの成功を受けてバンドへ正式に加入。しかし『Future Days』(73年)のツアーの終了後、スタジオセッション中にマイクをポケットに突っ込んだまま外に突如飛び出し、そのままバンドを脱退する。
ダモ鈴木は、映画のサウンドトラックの編集盤『Soundtracks』(70年)、2枚組のセカンドアルバム『Tago Mago』(71年)、ヒットシングル“Spoon”や代表曲“Vitamin C”を含むサードアルバム『Ege Bamyasi』(72年)、最高傑作と名高い4作目『Future Days』に参加。また未発表曲集『Unlimited Edition』(76年)、ジョン・ピールのラジオでのライブ録音盤『The Peel Sessions』(95年)、未発表テープをコンパイルした『The Lost Tapes』(2012年)などでも、そのパフォーマンスを聴くことができる。
カンを脱退したあとダモ鈴木は、エホバの証人の伝道に携わり、またドイツで会社員として働いた。音楽からは11年間離れていたが、80年代に入って〈ガンになって死にかけた〉ことをきっかけに活動を再開、ヤキ・リーベツァイトのバンドであるファントム・バンドやその関連集団ドゥンケルツィッファーに参加し、自身のダモ鈴木バンド、ダモ鈴木&フレンズ、ダモ鈴木ネットワークでも活動した。日本でのライブもしばしばおこなっており、2010年代にはBo Ningenやブラック・ミディといった下の世代のミュージシャンと共演、2019年には自伝「I Am Damo Suzuki」を上梓している。
ザ・フォールに“I Am Damo Suzuki”(85年)という曲があるが、ダモ鈴木在籍時のカンは特にポストパンク期のアーティストからリスペクトを集め、その後も参照されつづけた。彼の即興によるボーカル/歌唱やカリスマ性は、後世のミュージシャンに多大な影響を及ぼしている。音楽の世界から一時的に離れた時期があり、神出鬼没なイメージもあったダモ鈴木は、最期まで謎に包まれた存在だったと言えよう。
なお2月23日(金)には、ダモ鈴木の貴重なライブパフォーマンスが聴ける秘蔵音源『Live In Paris 1973』がリリースされる。特別な意味を帯びた本作でその声を聴いて、在りし日の彼に思いを馳せたい。
■参考文献
「別冊ele-king カン大全――永遠の未来派」松山晋也 監修・編集、Pヴァイン、2020年11月14日