研ぎ澄まされた感覚で伝える深い感情と物語り
演奏家が音に対して鋭敏な感覚を持っているのは当然のことのように思えるが、その中でも並外れた感覚の持ち主が現れることがある。4月にECMからのソロ・デビュー作となる『Silent, Listening』を発表するフレッド・ハーシュは間違いなくそのひとりだ。セロニアス・モンクの音楽を取り上げた『Thelonious: Fred Hersh Plays Monk』(1998年)や、ビル・フリゼールとの『Songs We Know』(1998年)、ソロ・コンサートの模様を収めた『In Amsterdam: Live At The Bimhuis』(2006年)など、多くのアルバムでその鋭敏さを発揮していた彼は、2008年に病気で2か月間昏睡状態に陥り、筋力が著しく失われた。しかし、リハビリを経て演奏活動を再開した後の演奏を聴くと、ポリフォニックなアプローチによって音数が削ぎ落されたことと相まって、弱音に対する感覚がより洗練されたような印象を受ける。ソロ・ピアノによる『Open Book』(2017年)はその好例だ。
新作に収録された11曲のうち、タイトル曲や“Akrasia”、エンリコ・ラヴァに捧げた“Little Song”といった曲や、即興のきっかけになりそうなモティーフになる断片的なものはあらかじめ用意していたが、約半数はその場でひらめいたものだという。「“Softly, As In A Morning Sunrise”や“The Wind”をやることは全く想定していなかった。ピアノの内部奏法も、面白そうだったから普段よりも多く取り入れてみた。伝説的なプロデューサーのマンフレート・アイヒャーと一緒に仕事をするのは、とても楽しかったよ。僕が余計な考えに煩わされず、自然に何かを思いつくことのできるような雰囲気を創り出してくれたからね。結果的に、自分でプロデュースするのとは全く違う作品になったんじゃないかな。僕にとっては12、13作目のソロ・アルバムで、これまでとは違う作品にしたいと思っていたから、結果にはとても満足しているんだ」
オープンな即興による“Night Tide Light”と“Aeon”、“Volon”というタイトルは、アメリカの現代美術家ロバート・ラウシェンバーグの作品から採られたものだという。「僕はラウシェンバーグの作品が大好きで、彼はタイトルの付け方も上手いから、録音の時に彼の作品のタイトルをいくつかリストアップしたものを持って行って、それぞれの演奏に合いそうなものを選んだんだ」
スイスのルガーノにあるコンサート・ホール、オーディトリオ・ステリオ・モロで録音された新作は、すでにそのタイトルからして、音に対するフレッドの並々ならぬ感覚が現れているが、録音もそれにふさわしい状況で行われた。「世界で最も完璧な音響を持ったコンサート・ホールのひとつで、ピアノも大型の素晴らしいハンブルク・スタインウェイだった。(2021年に)エンリコ・ラヴァとECMのために『The Song Is You』を録音した時にも、同じ会場とピアノを使っていたから、状況はよくわかっていたよ。マンフレートとはその録音の時に初めて会って、僕のアルバムも作るように勧めてくれた。それで、同じホールの同じピアノでソロのアルバムを作りたいと言ったんだ。ソロで演奏する時に自分と最初につながるのはピアノのサウンドやタッチで、その次が空間の響きになる。そのサウンドと僕の芸術性が相まって、様々な感情が生まれるんだ。僕はコンサートで演奏する時でも、自分のテクニックを聴き手に印象付けようとはしない。あくまでも自分が感じたことや考えたこと、何かの物語りを伝えるために演奏するんだ。実際の演奏ではピアノのサウンドやタッチ、リズムといったものを駆使するわけだけれど、そういったものを覆い隠すような感情がものすごく大事になってくる。音符の背景には喜びや優しさ、激情といった感情が必須なんだ」
フレッド・ハーシュ(Fred Hersch)
1955年、オハイオ州、シンシナティ生まれ。即興演奏家、作曲家、教育者、バンドリーダー、コラボレーター、レコーディング・アーティスト。USヴァニティ・フェア誌で〈過去10年間のジャズ界で最も目を見張るような革新的なピアニスト〉と絶賛され、グラミー賞に15回ノミネートされているほか、ジャズ界で最も権威のある賞を定期的に受賞している。最近では、2021年のダウンビート批評家投票でジャズ・ミュージシャン・オブ・ザ・イヤー第2位、ジャズ・ピアニスト第3位に選出。また、仏ジャズ・マガジンでは2021年インターナショナル・ジャズ・アーティスト・オブ・ザ・イヤーにも選ばれた。リーダーまたは共同リーダーとして、50枚以上のアルバムを残している。