杉山洋一
©Ayumi Kakamu

神奈川県民ホール開館50周年記念オペラシリーズ第2弾
サルヴァトーレ・シャリーノ作曲「ローエングリン」

ただ一人の登場人物エルザに橋本愛を迎え10月の公演に向けてリハーサル中の指揮者杉山洋一に本作の魅力を聞く

 神奈川県民ホール開館50周年記念オペラシリーズの第2弾として、サルヴァトーレ・シャリーノのオペラ「ローエングリン」が今秋10月に上演される。そのタイトルを聞いて一般のオペラ・ファンがまず思い浮かべるのは、ワーグナーの「ローエングリン」であろう。このオペラの中で演奏される“結婚行進曲”は、クラシック音楽に馴染みのない人にもよく知られているし、白鳥とともに現れる騎士ローエングリンが、ヒロインであるエルザを窮地から救い出すストーリーも、オペラの王道を行くものと言えるだろう。

 しかし、シャリーノの「ローエングリン」は、ワーグナーの同名作品と題材こそ同じでありながら、そのストーリー性は徹底的に打ち砕かれ、音楽指向も、ワーグナー的なものとは完全に逆方向を向いている。シャリーノ作品での実質的な登場人物はエルザ一人で、彼女一人によるモノ・オペラ的な形態をとっていることだけでも、作品の異様さは容易に想像できるであろう。そしてさらに驚くべきことに、シャリーノはそのエルザ役に、歌手ではなく〈女優〉を指定しているのだ。楽譜を見ると、エルザ・パートには、ドレミなどの固定された音名や特定の拍子に基づいた明確なリズムは全く書かれておらず、比較的自由な間合いでグラフィカルに記譜された、ため息や囁き声などの〈歌声以前〉の多種多様な発声ばかりで、ほぼ全編が埋め尽くされている。ワーグナー的な大管弦楽も不在だ。エルザと共に演奏するのは、わずか16人の室内オーケストラと男声3人による〈合唱〉という切り詰められたアンサンブル。こちらもひたすらヒラヒラと、音楽のかけらのようなかぼそい音響を〈ささやき〉続ける。

 〈オペラ〉というジャンルから想像される、華やかな舞台で朗々と歌われる音楽のイメージとは真逆のベクトルを向いたこの作品を、〈オペラシリーズ〉の演目として選ぶ企画者のセンスもなかなか攻めているが、もっと挑戦的なのが、唯一の登場人物、エルザ役として、橋本愛をキャスティングしたことである。様々な映画やドラマで一般的な知名度も高い、橋本愛という名前は、前衛的な現代オペラのイメージとは即座に結びつかないが、彼女は、この難曲に本気で取り組むために、すでにリハーサルを重ねているそうだ。今回の公演で指揮を務める杉山洋一氏に、その様子を聞いてみた。

 「橋本さんはもうすでに、エルザを体現なさってらっしゃると思います。役者さんがオペラの主人公をやることは、ほとんどないので、このようにチャレンジングなことをどうすれば良いのか、僕もものすごく悩みました。最終的に行き着いたのが、オペラと同じやり方。普通のオペラと全く同じように、最初に音楽稽古といわれるものを何度もやっていただいて、楽譜を覚えて消化したところで動きを付けます。本当に全く同じです。

 今回の場合、まず音楽稽古の前に〈声を作る〉という長期間に及ぶ作業が必要でした。この場面をどういう声で作りたいか。そこから、橋本さんを良い意味で触媒にして、いかにエルザというものを引き出すことができるか、そうした声を作ることができるか、ということを研究したのです。しかも楽譜と言っても、ト音記号や4分の4拍子で書いてあるような一般的なものではありません。私たち音楽家にとっても〈読めますか?〉と聞かれたら、すぐには読めないような、難しい楽譜なんですね。それを一緒に読み解く時間が必要でした。でも、橋本さんの吸収力というか理解力は、びっくりするくらい早かったですね。これは、いかに彼女がそれに対して熱意を持って取り組んでいらっしゃるかということの表れであると思うんですけれど。本当に物凄い勢いで理解してくださっています。その後に指揮者と合わせながら、暗譜もしなきゃいけないというとんでもなく大変なことを全部やっているわけですが、本当に普通に、我々がオペラをやっている時と同じようなかたちでやっている。ですから、はっきり言って、役者さんであるからどうってことではなくて、本職の歌手の方とお仕事しているような感覚でやっているのと全く同じと思っていただいてよいかと」

 すべての声と楽器の音を電気増幅する指示があるにしても、シャリーノの繊細極まりない音響を、神奈川県民ホールという巨大な会場の客席にどのように届けるのか、というのは大変な難問に思える。しかし、このことに対しての杉山氏の見解は興味深い。

「音響のことは、やはりとても難しい問題です。物凄いチャレンジングなプロジェクトだと思います。少なくともこの作品が生まれた時には、あのような大きなホールで演奏されることは全く意図されていなかったと思うのです。このことは、やってみないとどうなるのか分かりません。でもここまで大変なので、逆に期待でわくわくしています」

 〈わくわく〉の結末が今から楽しみだ。

 


INFORMATION
「ローエングリン」(1982-84年)
[日本初演/日本語訳上演 *一部原語上演]

Salvatore Sciarrino:Lohengrin(1982-84)
Azione invisibile per solista, strumenti e voci
原作:ジュール・ラフォルグ
音楽・台本:サルヴァトーレ・シャリーノ
初演:1984年9月15日カタンツァーロ(イタリア)
(初版初演:ミラノ1983年1月15日)
サルヴァトーレ・シャリーノ作曲「瓦礫のある風景」(2022年)の演奏あり。

サルヴァトーレ・シャリーノ作曲「ローエングリン」特設サイト:https://www.kanagawa-kenminhall.com/lohengrin/