湯浅譲二が死去した。

湯浅譲二が亡くなったことは、湯浅の出版や著作権管理をおこなうショット・ミュージックのオフィシャルサイトで発表された。朝日新聞によると、湯浅は2024年7月21日に肺炎のため東京都内の自宅で死去。94歳だった。

ショット・ミュージックのコメントは以下のとおり。

作曲家 湯浅譲二が7月21日に逝去しました。94歳でした。

昨年8月に世界初演された《哀歌エレジィ》で、今年、自身5度目となる第71回尾高賞を受賞するなど、晩年まで自らの信念に従い、真摯に作曲に向き合っていました。今月7日と12日には95歳を記念する個展演奏会を予定しており、それを目前に控えてのことで、残念でなりません。

ここに哀悼の意を表し、謹んでお知らせ申し上げます。

湯浅譲二は1929年8月12日、福島・郡山生まれの現代音楽の作曲家。

ショット・ミュージックのバイオグラフィによると、作曲は独学。少年時代に作曲を始めた一方で、1949年に慶應大学医学部進学コースに入学。在学中、音楽評論家・秋山邦晴や作曲家・武満徹と出会って音楽活動に興味を覚え、1951年に詩人・瀧口修造を中心にした芸術家グループ・実験工房に参加、作曲に専念するようになった。それ以降、オーケストラ、室内楽、合唱、劇場用音楽、インターメディア、電子音楽、コンピュータ音楽など、幅広い分野で活躍してきた。

湯浅は米ニューヨークのジャパン・ソサエティ(1968~1969年)をはじめ、国内外で数多くの招聘を受けてきた。また米ハワイの今世紀の芸術祭(1970年)に始まり、数々の音楽・芸術祭にゲスト作曲家や講師、審査員、監修者として参加。クーセヴィツキー音楽財団、ザールラント放送交響楽団、ヘルシンキ・フィルハーモニー交響楽団、NHK交響楽団、日本フィルハーモニー交響楽団、カナダ・カウンシル、サントリー音楽財団(現・サントリー芸術財団)、IRCAM、米国国立芸術基金などから、多数の委嘱を受けている。1995年には、第二次世界大戦終結50周年記念としてシュトゥットガルトの国際バッハアカデミーの委嘱による“和解のレクイエム”の“レスポンソリウム”を作曲した。

受賞歴も華々しく、ベルリン映画祭審査特別賞(1961年)や日本芸術祭大賞(1973、1983年)、京都音楽賞大賞(1995年)、サントリー音楽賞(1996年)のほか、芸術選奨文部大臣賞(1997年)、紫綬褒章(1997年)、恩賜賞(1999年)、日本芸術院賞(1999)、日本アカデミー賞優秀音楽賞(2000年)、旭日小綬章(2007年)、文化功労賞(2014年)といった数多くの賞を受けている。

さらに米カリフォルニア大学サン・ディエゴ校教授、日本大学芸術学部大学院客員教授、東京音楽大学客員教授、桐朋学園大学特任教授などを歴任し、教育や研究の場でも活躍した。

また故郷との関わりでは、1996年から郡山市フロンティア大使を務め、同市の小学校の校歌を作曲したほか、2016年には市制施行90周年と合併50年を記念した交響曲“あれが阿多多羅山”を作曲。同市の名誉市民にも選ばれている。

湯浅は、音楽を〈音響エネルギーの推移〉として捉えており、またコスモロジー(宇宙観)を表現・反映するものと考えていた。その思想から独自の現代音楽作品を作り上げ、“オーケストラのためのクロノプラスティック”(1972年)や“弦楽四重奏のためのプロジェクション”(1970年)、“ピアノのための内触覚的宇宙”(1957年)、電子音楽作品“ホワイトノイズによるイコン”(1967年)などを作曲。それだけでなく映画、連続テレビ小説や大河といったドラマ、ラジオ、CMなどの音楽も多数手がけ、“はしれちょうとっきゅう”のような童謡も作るなど、実に幅広い活躍をした。

なお本日8月5日、このあと19:30からDOMMUNEで湯浅譲二の特集が放送される。DOMMUNEは湯浅をたびたび取り上げてきたが、彼が亡くなったため今回は追悼番組になる。

ジャンルを縦横無尽に横断し、ユニークな作曲哲学から膨大な作品を生み出した湯浅。現在も広く世界で演奏されている彼の作品は、これからも奏でられ、聴かれつづけていくだろう。