〈知る人ぞ知る存在〉から〈誰もが知らねばならない存在〉へ――湯浅譲二の世界映画音楽史の真打登場

湯浅譲二 『湯浅譲二の映画音楽/松本俊夫監督「薔薇の葬列」「母たち」「わたしはナイロン」<限定盤>』 スリーシェルズ(2021)

湯浅譲二 『湯浅譲二/EXPO’70「せんい館」のための音楽」<限定盤>』 スリーシェルズ(2021)

 「薔薇の葬列」のサントラ! 音楽だけいきなり聴いて面白いかと問われれば、やや返答に窮する。でもこの湯浅譲二の仕事は世界映画音楽史の真打の部類に入る。曲は、オーストリアの古い俗謡“かわいいアウグスティン”のメロディーの一本調子の反復と紋切り型の変奏ばかりで出来ている。その旋律は、たとえば昔のテレビ・コマーシャルで〈♪カーメラのキームラ、キームラ、キームラ〉と替え歌されていた。レーミレド・シーソソ、ラーレレ、シーソソ、というふしだ。

 しかも音色がとびきりチープ。用いられる楽器はハモンド・オルガンとエレクトーンだけ。「薔薇の葬列」は69年の作品だ。その頃の日本はエレクトーン・ブームだった。安手とも言える電気音が町中から響いていた。我が家にもあった。幼稚園児の僕も弾いていた。その音色はありふれた風俗だった。そして「薔薇の葬列」は松本俊夫監督によって周到に仕組まれた一種の風俗映画である。描かれるのは新宿2丁目。ゲイの世界。この国のゲイ人口は急拡大して60万人を突破したと、その頃、報道されていた。

 そういう最新の風俗を器に使って松本は、男の子に根源的に禁じられているものをアクチュアルな風俗劇に描き直そうとした。要するにフロイト説のパロディー。男の子は母に憧れ、邪魔者の父を殺して母を独占したいと願う。でも幼子には普通、父を殺す実力はなく、その欲動にブレーキを掛けざるを得ない。掛けられなかったら破滅だ。だからこそギリシア悲劇のオイディプス王は、父とは知らずに彼を殺し、母とは知らずに彼女と交わり、その後、真相を悟って絶望し、自らの目を突いて己を罰したのではないか。

 「薔薇の葬列」はギリシア悲劇の新宿2丁目版である。ピーター扮する美少年が実の母を殺し、実の父と交わり、後で真実を知って自らの目を突く。でも荘重ではない。古代ギリシアでなく新宿が舞台の風俗劇だからだ。風俗劇とはチープでなければいけない。ゆえに松本はこの映画を安手の白昼夢のように撮る。モノクロ映画なのだが、露出オーバー気味の白っぽい映像ばかりが記憶に残る。そういう映像と共振するのが湯浅の音楽ということになる。電気楽器の甲高い音色は、露出オーバー気味な白昼夢的映像の質感とシンクロする。しかもそこで奏でられるのは“かわいいアウグスティン”! 平俗の極み。ポップの累乗。

 いやいや、“かわいいアウグスティン”についてはもうひとつ踏み込んだ解釈も要るだろう。この俗謡は、疫病の大流行で恋人のアウグスティンを含むすべてを失ったと嘆く男の歌だ。その旋律をシェーンベルクは弦楽四重奏曲第2番(1907年)に引用している。愛妻の画家との不倫。作曲家は地獄の苦しみの中でこのカルテットを作曲した。“かわいいアウグスティン”は三角関係と家庭の破滅を象徴しているのだろう。そんな故事を知れば、息子と父母の三角関係による大破局家庭風俗劇「薔薇の葬列」には、他のどんなチープなメロディーよりも“かわいいアウグスティン”が相応しいと分かるだろう。これほど引用の決まった映画音楽が他にあるか!

 「薔薇の葬列」の映画音楽の話で字数がほぼ尽きた。すみません! 映画音楽「母たち」は、湯浅が間宮芳生と並んでバロック音楽風のスタイルで書くときに映えに映える作曲家であることの証明であり、映画音楽「わたしはナイロン」は、湯浅の超現実主義者としての美質を尖鋭に示し、70年の大阪万博のあの懐かしいパビリオン〈せんい館〉のための、全く子供の夢のようなとりとめのない音楽は、湯浅のオーケストラのための傑作“クロノプラスティック”と“オーケストラの時の時”の偉大なプレリュードになっている。そして、この2枚のCDに収められた仕事のあと、湯浅は〈知る人ぞ知る存在〉から〈誰もが知らねばならない存在〉へと、ついに飛躍するのだ。この2枚は湯浅の〈幼年期の終わり〉のドキュメントでもあるだろう。