あなたと僕に問う「どう?」
その場合“犬と猫”での、「どう?」がこの『金字塔』というアルバムのムードを象徴しているように思える。
それは「あなたって最近どう?」という問いかけであり、「僕ってどう?」という含みもあるのではないか。
その“犬と猫”です。
「どう?」から始まり、「同情で群れ成して、否で通す(ありゃ、マズイよなぁ)。」などが続くわけですが、これは全体を通して引用しないといけないんじゃないか、という気がする。
全体の流れが一つの詩として出来上がっているので、それの一部分を持ってきてもあんまり意味ないんじゃないかという気がする。中村一義の歌詞はどこかのタイミングで現代詩としての評価を受けるべきだったんじゃないかと思う。句読点や()を多用している時点で、聴かせるだけじゃなくて、読まれることも前提としているだろうし。
しかし当時中村一義が掲載されている雑誌類を見ても、サウンド面での言及は多くても、歌詞への言及があまりないんですよね。音楽ライターがわからないからってことでしょうけど。
その上にむかつくのが中村一義だけじゃないけど90年代のミュージシャンの扱いで、あまりにもアイドル扱いをし過ぎている。そして中村一義は「顔がかわいい若い男として」きっちりインタビュアーからなめた態度を取られているんですよね。許せない。
インタビューで「宇宙に持っていくものをひとつあげるとしたら」とか聞いてる場合じゃないんですよ。あのノリって出版業界の余裕そのものなんだけど、良くないよね。読んだとき、27年のラグをもって「ちゃんとやれや」とキレそうになった。
「ブルースに殺されちゃうんだ。」があんなにまっすぐに響くのはなぜだろう。本当にこの人はそんな目に遭っているんじゃないかという説得力があります。
問いかけたあとに現実を見せる
そしてもっと語られるべき曲といえば“永遠なるもの”なんですが、「あぁ、全てが人並みに、うまく行きますように。」という切実な願いと、「暗いだなんて言うなって。」という客観に連なる「全てよ、運命の想うままに。」は、運命に身を任せるしかないという前向きな諦念に似たものなんじゃないか。これは先ほど書いた、“いっせーのせっ!”の台本の話と、きっと同じで、「台本」=「運命」であり、受け入れることしかできない決まったものだという前提が歌詞にはあります。
「愛が、全ての人達に、分けられてますように。」という博愛と、そのあとに続く「一回も考えなかった。「語ってるよ」とか言って茶化して。」は現実の提示だと思うんだけど、根底にあるのは優しさだと思います。
「悪者が持つ孤独が、みんな、解るかい?」もすごいな……そのあとの「「旅人!」とか、みんなは、そう言うだけ」もすごい。中村一義は、問いかけたあとに現実を見せるんですよ。そのあとにあるのが「予報によりゃ、言う奴が…そうか、もうか…そうかぁ…落ちるそうだ。底へ。」ですよ。すさまじくないですか。底へ落ちてしまうのかよって。
美しいメロディに合わせて歌われている内容が黙示録なんですよね。
「全ては、みこころのままに。全ては、あの“なすがまま”に…。/全ての人達に足りないのは、/ほんの少しの博愛なる、気持ちなんじゃないかなぁ。」