エルメート・パスコアールが死去した。

エルメート・パスコアールが亡くなったことは、彼のInstagramやFacebookアカウントで発表された。死因は発表されていない。89歳だった。

遺族のコメントは次のとおり。

静寂と愛を込めて、エルメート・パスコアールが家族と仲間の音楽家たちに見守られながら、霊界へ旅立ったことをおしらせいたします。

彼が亡くなったまさにその瞬間、彼のグループはステージに立っていました。まさに彼の望んだとおり、音や音楽を奏でていたのです。

彼がいつも教えてくれたように、悲しみに囚われてはいけません。風の音、鳥のさえずり、水の音、滝の音に耳を傾けましょう。普遍的な音楽は生きつづけます。エルメートはよくこう言っていました。

「この歌は遠くから聞こえてくる。
その距離は、私には分からない。
生きる人々、そして他者に生きる居場所を与えるすべての人々に万歳。
さあ、私たちの温かい抱擁を。
音と知識をもって、
私たちの心から、伝えたい言葉を引き出しながら。
音楽は世界を一つに繋ぐ。
私たちが生きているかぎり、
それは尽きることのない泉であり、喜びと楽しみの魔法の源泉となる。
愛するみんな、奏でよう、歌おう。
夜明けの鐘が鳴るまで」

現時点では、ご配慮とプライバシーの尊重をお願いいたします。パブリックな追悼式の詳細は、近日中に公式チャンネルで発表いたします。

もし彼に敬意を表したいのであれば、楽器、声、あるいはやかんなど、どんな音でも一つ鳴らして、宇宙に捧げてください。

エルメート・パスコアールは1936年6月22日生まれ、ブラジル北東部のアラゴアス州ラゴア・ダ・カノア出身の音楽家。出生地は電気も通っていなかった地域だったという。幼い頃から父にアコーディオンを教わって練習していたが、それは彼がアルビノとして生まれたため働けなかったからだそうだ。

8歳でフルートも演奏しはじめ、パーカッションやピアノも独学で学びつつ音楽の神童として評判になり、11歳で兄と父とのバンドで演奏するようになった。1950年、家族でペルナンブーコ州レシフェに移住。同地で複数のバンドに参加、1960年にはサックスも吹くようになり、コンジュント・ソン・クアトロを結成した。

1961年にサンパウロに移住。1964年からエドゥ・ロボ、エリス・レジーナ、ザール・カマルゴ・マリアーノといった著名ミュージシャンのレコーディングセッションに参加し、音楽業界で知られていくようになる。1965年に盟友アイアート・モレイラ、ウンベルト・クライベールとともにサンブラーザ・トリオを結成。その後、トリオ・ノーヴォ(のちにクァルテート・ノーヴォに改名)に参加し、ブラジリアン・オクトパスでも演奏した。1970年には『Hermeto Pascoal』でソロデビューも果たしている。

1970年、アイアートを介してエルメートはマイルス・デイヴィスに出会い、彼のセッションに参加。エルメートが参加したマイルスのアルバム『Live-Evil』がリリースされたことをきっかけに、彼は国外でも知られる存在になっていく。1970年代後半からは自身のグループを率いて主に活動し、代表作のひとつである傑作『Slaves Mass』(1977年)などを次々と発表。1979年にはモントルー・ジャズ・フェスティバルに出演、その際の演奏を収めたライブアルバム『Ao Vivo Montreux Jazz Festival』も高い評価を得るなど国際的な名声を高めた。

以降、世界中でライブパフォーマンスをおこない、多数の作品を生み出したエルメート。日本のオーディエンスとの繋がりも深く、近年もたびたび来日しており、2023年にもツアーをおこなっている。

〈音楽の魔術師〉と称されたエルメートは、ティーポットや瓶などの食器や玩具、人体、動物の鳴き声、水の音のような自然音を音楽に取り入れた非常に独創的な音楽家だった。アバンギャルドでありながらもユーモラスで親しみやすい唯一無二の音楽は世界中のミュージシャンに影響を与え、原田郁子、七尾旅人、挾間美帆、長谷川白紙ら彼を敬愛する日本人アーティストも数多い。

ブラジル音楽、ジャズ、前衛音楽といった垣根を超えた、彼にしか作ることができない音楽を奏で、自然や環境との関係のなかで音楽を捉えた異才エルメート。彼が亡くなっても私たちが歌い、何かを鳴らしつづければ、その魂と音楽は永遠に生きつづけるはずだ。