渡辺貞夫カルテット
提供:新宿ピットイン/ピットインミュージック

2025年末に開催された〈新宿PIT INN 60周年記念コンサート〉。石若駿率いるAnswer to Rememberら新世代から日野皓正、山下洋輔、渡辺貞夫といったレジェンドまでが出演、チケットは完売し、日本のジャズ史を包括するようなイベントになった。そんな2日間の模様をライター/音楽批評家の細田成嗣が伝える。 *Mikiki編集部


 

日本ジャズ史の厚みと現在地を示した祭典

新宿が若者の街と言われたのは遡ること60年ほど前のことだ。すなわち1960年代、聞くところによればジャズ喫茶ひしめく新宿には左翼学生から詩人や芸術家の卵、駆け出しのミュージシャン、演劇青年、はては素性の知れないフーテンまで、エネルギーを持て余した若者たちが集まり独自のアングラカルチャーを形成していた。ジャズそのものもまた動き出していた。銀座から新宿へと〈現場〉が移り変わりつつあった。その動きを推し進めた主要な拠点となったのが他でもなく新宿ピットインだった。

新宿ピットインがオープンしたのは1965年12月24日。バークリー留学を終えた渡辺貞夫が帰国した翌月のことである。創業者の佐藤良武は当時20歳の大学生だった。渡辺貞夫もまだ30代前半。まさに若者文化としてジャズは新宿を拠点に成長していったのだ。以来長きにわたってピットインは移転を挟みつつも新宿でライブハウスの営業を続けてきた。半世紀以上続くジャズのライブハウスは世界的に見ても稀有な場所の一つと言っていいだろう。そのようなピットインの60周年を記念したコンサートが、2025年12月27日と28日の2日間にわたって新宿文化センター・大ホールで開催された。

計12組、総勢80名以上が出演した同コンサートは、前売りチケットが完売、年の瀬にもかかわらず両日ともに約1,600席の会場が大勢の観客で埋め尽くされた――キャパ100席ほどのピットインの実に16倍(!)。ピットインといえば数々の伝説的なエピソードを生んできた日本ジャズの聖地であり、同時に今もなお新進気鋭のミュージシャンを輩出し続けている現在進行形のジャズ揺籃の地でもある。そのような〈現場〉であればこそ可能だったのだろう、このたびの60周年記念コンサートは、日本ジャズの歴史の層の厚みを感じさせるとともに現在地を指し示す、それ自体が歴史に残る祭典となった。本稿では同コンサートから、特に印象に残った場面について抜粋しメモランダムに記していく。

 

ミュージシャンの〈実家〉、その100周年に向けて

初日、2日目ともにコンサートの冒頭では、新宿ピットイン創業者であり現会長の佐藤良武が登壇して挨拶を行った。良武はピットインに関わりの深いミュージシャンとして渡辺貞夫、日野皓正、山下洋輔の3人の名前を挙げ、なかでも2025年をもって活動を休止する山下洋輔との思い出を振り返りつつ、彼が「ピットインは実家である」と語ったことに言及。ピットインが実家であればスタッフや観客は〈家族〉であると続け、「いろんなミュージシャンから実家と言われるようにこれからもやっていきたい」と、100周年を目標として掲げた。

そして新たに社長に就任した息子の佐藤良雅を紹介。ピットインゆかりのミュージシャンや大勢の観客を前にして、親から子へ、創業者から新社長へとバトンを受け渡す〈儀式〉にも映ったその場で、良雅は早速新たな試みとして2026年4月から34年ぶりに〈朝の部〉を再開することを発表した。現在は〈昼の部〉と〈夜の部〉のみ行われているが、〈朝の部〉は実験的な音楽や若手ミュージシャンの表現の場として運営していく予定だという。最後に良雅は「あとは素晴らしいミュージシャンたちにこのステージを預けたい」と締め括った。それはピットイン開店以来創業者の良武が抱き続けてきた〈場は用意するが表現内容はミュージシャンに委ねる〉という方針を受け継ぐ象徴的な言葉にも聞こえた。