少女時代に聴いた「歌」の記憶。それはおそらくダイアナの原点であり、彼女はその記憶の鮮やかな断片である楽曲の数々を本作で歌っている。例えば10CC《アイム・ノット・イン・ラヴ》、ボブ・ディラン《ウォールフラワー》、ビートルズ《イン・マイ・ライフ》。

 エルヴィス・コステロとの結婚以降、ダイアナの音楽の志向には、あきらかに、もう一つ別のベクトルが加わるようになっていった。それは、彼女を形容する際に用いられる「ジャズ」とは少し離れた方法論で音楽を創造する、という営為である。そして、そのベクトルから生まれた成果を巧みに取り入れたのが前作『グラッド・ラグ・ドール』であり、本作はその延長線上に位置する作品といっていいだろう。しかし、本作で聴けるサウンドは前作ともまた異なるものだ。

DIANA KRALL Wallflower Verve/ユニバーサル(2015)

 アレンジを担当するのは、数多の名作、ヒット作に関わった、米国ポピュラー音楽シーンの王道を歩むデイヴィッド・フォスターだ。本作において、リズムも含めて、サウンド面でのジャズの要素はほとんど払拭されている。デイヴィッドはダイアナが愛してやまないポップスやロックやフォークの名曲にジャズ的アレンジを施すのではなく、ポップス・サイドのマエストロの手法を用いて楽曲に向き合っている。彼が創出したのは、今でもダイアナの内面に沈潜しているであろう少女時代にそれらの楽曲から受けとめたイメージ、感情、気分を投影しながら、成熟したシンガーへと成長した現在の彼女のエモーションに感応するかのように練られたアコースティックなサウンドだ。そして、それは楽曲に新しい彩りを添えることにもなった。そのサウンドを背景にダイアナは歌詞の意味を噛みしめるように歌っている。少女時代の甘酸っぱい恋の思い出、エスタブリッシュされたものへの嫌悪や反発、青春の一時の輝き、希望、挫折…。彼女の歌唱は、「歌」の物語、そこに込められた感情を表現しながら彼女自身のさまざまな心の残像をも描き出していて、見事だ。

 本作には4人の男性ミュージシャンがゲスト参加した。マイケル・ブーブレブレイク・ミルズブライアン・アダムスジョージィ・フェイム。彼らはそれぞれ《アローン・アゲイン》《ウォールフラワー》《フィールズ・ライク・ホーム》《イエ・イエ》の録音に参加していて、どの曲も秀逸な仕上がりだ。そして、特筆すべきはエルトン・ジョン作《悲しみのバラード》であろう。この曲でのダイアナの歌の解釈の深さは心の琴線に触れる。さらに、嬉しい発見も。ポール・マッカートニー作の未発表曲も収められ、いかにもポールらしい魅力的なメロディ・ラインを持つ曲をダイアナはじっくりと歌い、これも本作のハイライトの一つだ。