追悼 ニコラウス・アーノンクール
すべての演奏家にとっての道標となった録音の数々
ニコラウス・アーノンクールが遺した清新な解釈と演奏、その録音の数々は、後に続くすべての演奏家にとっての道標となった。
アーノンクールは、古い教会や、街から遠く離れた城塞のような建築物と同じく、時間の流れに朽ちることなく佇む過去の音楽作品を訪問しようとする私たちに、それらの作品の誕生した時代に暮らした人々の生活や感情をたどり、想いを馳せるという選択を提示した。それは例えば、普段なら1時間のフライトで着く場所に、街道や宿場街を訪ね歩きながら馬車や徒歩で旅をしたことへの畏怖を思い描くということだ。もちろんアーノンクールは博物学者ではなかったから、現代の我々にとって感動的な旅のための手段とそのテクノロジーを否定したわけではない。しかし、目的地に到達することを優先するあまり、どんどん見失われていく車窓の景色の美しさとその滋味を、もう一度現代の私たちに気付かせた。たとえ私たちが彼の示したような田園や山岳地帯の生活の深みに分け入ることを拒み、今まで通り近代的に舗装されたアスファルトの高速道路を選ぶとしても、その分岐点に聳えて厳しく問いかけてくる偶像となったのだ。
ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスの立ち上げ
ウィーン交響楽団のチェリストであったアーノンクールが指揮者になるきっかけとなったのは、モーツァルトの有名な交響曲第40番ト短調だった。「死」のイメージであるト短調で書かれた曲を、ただ流麗に演奏する指揮者や心地よさそうに聴く客席に耐えかねたからだ。早くから古楽器を収集し、それらの醸し出す響きや、演奏に際しての技術上の制約が、同時代の音楽作品の本質とどのように結びついているのかを探求した。一般にどの楽器にも、より大きな音量を求め、すべての音をより均質に発音できるような機能へと向かう発達の歴史がある。その過程で、木管楽器にはキーが増え、弦楽器は張力を高めるべく改造され、金管楽器はバルブを持った。通常のオーケストラは、あらゆる音楽の民族性と時代様式に広汎に対応するために、現代の楽器によって構成されるが、アーノンクールは作品の生み出された当時の構造のままの古楽器と“ピリオド”奏法による演奏の先駆者として、1953年に手兵のウィーン・コンツェントゥス・ムジクスを立ち上げた。
彼は、作品が成立した年代の音色や音響を再現しようとしただけではなく、作曲者の手稿譜や、同時代の音楽に関しての論述や教本などの文献を可能な限り多岐にわたって研究し、作曲家が生きた社会の美学的な価値観に基づく再解釈を施した。そうして手懸けた作品はまったく新しく鮮烈な姿で蘇り、人々を驚かせた。70年代には名門アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団を指揮するようになり、その後、ヨーロッパ室内管弦楽団、ウィーン・フィル、そしてベルリン・フィルなど、現代の楽器によるオーケストラでの演奏にもその先進性を発揮した。
修辞学に由来する音楽特有の話法
ところで、聖母マリアの純潔を示すのが百合であるように、絵画を鑑賞する際に、描かれているアトリビュートの表意を読み解くことができれば、美しさや華やかさとともにその絵画から受ける感動は倍増する。とりわけ古典派以前の絵画の理解においては、それがただ単に美しいだけの美術なのか、誘惑や欲望、あるいは宗教的感動や教訓までをも含んだ奥行きに満ちた芸術なのかという差が、受けとめる側の知識や素養によって生じてしまう。アトリビュートは近代に至ってもその命脈を保っているが、1800年以前の音楽には、19世紀以降次第に忘れられてしまうことになる、修辞学から応用された音楽特有の話法があったのだ。
その代表的なものは、「フィグーレン“figuren”」と呼ばれる、それぞれ固有の意味を持つ特定の音型だ。「ため息」や「十字架」、「嘆き」など、数多くの共通認識を持つ音型が存在し、バロック音楽はそれらによって構築されていた。だから、歌詞がない純粋な器楽であっても、当時の聴衆にはその音楽が語ろうとする内容が明白であった。その発生初期においては、音型と歌詞とは分かち難く結びついていたが、後には違う音型をあてはめることで同じ言葉の表す意味に幅をもたせることも可能となった。そのような発展の中で、音型そのものが独立した“言葉”として駆使されるに至った。
また同様に、バロック時代の人々には、ある音型がどのようなアーティキュレーション(音のつなげ方や切り方、またその一つ一つの強弱についての節回しやイントネーションのつけ方)で奏されるかということは、かなりな確率で自明の理であった。例外的に、そうではないアーティキュレーションが望まれるときに限って、作曲家はその方法を楽譜に示した。このことは、何も指定が書いていない場所の音符は均質に等価で演奏せねばならない、とした20世紀以降のバロック解釈とは真逆であった。何も書いていないのは、書く必要がなかったからなのだ。その一例を挙げるとすれば、音符の上に点をふる‘スタッカート’があげられるだろう。近世において、‘音を短く切って’に統一されたこの符号の指示は、もともとは‘均等な長さで’に近かった。あるいは、アーノンクール氏の言葉によれば、それはそこで当然なされるべきことを打ち消すように働く。つまり、もともと何も指定のない場所は、バロック時代には「均等に」は演奏されてはいなかった。だから、点がつけば「均等に」弾くことを要求したのである。
指揮者アーノンクール Before/After
このような演奏習慣を例証するための論拠は、アーノンクール自身による著述や録音の解説で読むことができるが、これをも含めて彼の偉大な遺産と考えるべき点が、彼以前の指揮者との一線を画している。指揮者のみならず演奏家は、ややもすると言葉で自身の想念について語ることを疎んじられる。語ればその通りに実現しないかもしれないリスクを背負うからだ。しかし、アーノンクールはあくまで実践を伴う言動一致型だった。それは彼がオーケストラでチェロを弾いていたからでもある。オーケストラのメンバーに、自身が試みようとする新しい表現を納得してもらいたかったのである。そして実際の演奏は、語られた設計意図をはるかに超えて感動的であることさえしばしばだった。
1994年からザルツブルグ・モーツァルテウムで僕が師事したギタリストのホアキン・クレルチは、前年まで同校で教鞭を取っていたアーノンクールの薫陶を受けていた。彼はアーノンクールと一緒にバッハの「プレリュード、フーガ、アレグロBWV998」を検討し、ギターの音響を確かめながら運指を作成した。「リュートのフレットはガットを巻いただけだから不可能だが、フレットが固定されているギターだったら(左指を滑らせる)グリッサンドを使うべきだ」とアーノンクールが指定した場所があって、あまりの情感豊かな効果に、それまで“端正でスムースなバロック音楽”に浸りきっていた僕は、伝授されるのをつかの間躊躇してしまった。だがやがて、バロック時代にしては珍しい、実践されるべきアーティキュレーションや装飾を細かに記述しているヨハン・セバスティアン・バッハの自筆譜が語りかけてくることを学ぶうちに、アーノンクールのセンセーショナルな演奏を裏打ちする正統性を垣間見られるような気がした。不協和音が協和音へと解決するエモーションが一つ一つの音の長さや強さを微妙に揺り動かす、その感覚をアーノンクールは生徒の身体を震わせながら伝えようとしたという。和声に色彩を与える装飾音は極めて劇的に奏でられ、言葉と音型の統計学から導き出されたアーティキュレーションの多相性は、カンタータの実演で驚くべき立体的な響きを生んだ。
学究の蓄積によって選び抜かれたアプローチを通して再創造される演奏にこそ、慣習的な方法から解放され、今そこに生まれたかのような作品の真実が現れる。それが過去の作品を真正な喜びのもとで息づかせ、現代の人々に訴えかける演奏へとつながることを教えてくれたアーノンクールの理念は、これからも広く受け継がれていくだろう。
Nikolaus Harnoncourt(ニコラウス・アーノンクール)[1929-2016]
1929年、ベルリン生まれ。指揮者、チェロ奏者。グラーツで育ち、ウィーンでチェロを学ぶ。52~69年までウィーン響のチェロ奏者を務める。古楽や古楽器の研究・収集にも注力し、53年妻アリスとウィーン・コンツェントゥス・ムジクス(CMW)を結成。70年代にオペラの指揮を始め80年代はウィーン・フィル、90年代はベルリン・フィルを振る。85年にシュティリアルテ音楽祭を創設。京都賞、ライプツィヒ・バッハ・メダルなど数々受賞。2015年12月に演奏活動の引退を表明し2016年3月5日死去。享年87。
寄稿者プロフィール
鈴木大介(Daisuke Suzuki)
1970年、横浜生まれ。ギタリスト。武満徹から「今までに聴いたことがないようなギタリスト」と評される。マリア・カナルス国際コンクール第3位、アレッサンドリア市国際ギター・コンクール優勝など数々受賞。斬新なレパートリーと新鮮な解釈によるアルバム制作は高い評価を受ける。洗足学園音楽大学客員教授。