1977年ジェノヴァ生まれのピアニスト、アンドレア・バッケッティが2011年からイタリア・ソニーで、J.S.バッハの「鍵盤作品全曲録音」に取り組んでいる。これまで日本国内盤は出ていなかったが、今年7月の来日に合わせ《イタリア様式のバッハ》と、2006年のソニー(当時はRCAレーベル)との契約後に録音したD・スカルラッティ、マルチェッロ、ガルッピらイタリアの鍵盤音楽にバッハの《フランス組曲第5番》を組み合わせた1枚とによる『イタリア協奏曲~バッケッティ・プレイズ・バッハ』の2枚組が4月末に発売。
《イタリア様式のバッハ》の冒頭、バッハのオリジナル作品である《カプリッチョ変ロ長調 BWV992『最愛の兄の旅立ちに寄せて』》を聴いた瞬間、今年が生誕100年のイタリアの巨匠指揮者カルロ・マリア・ジュリーニを思い出した。ジュリーニは1994年にバイエルン放送交響楽団を指揮、バッハの《ミサ曲ロ短調BWV232》をソニーに録音した。当時すでにアーノンクールやレオンハルトらピリオド(作曲当時の仕様の)楽器を使用したり、その奏法をモダン(現代仕様の)楽器のオーケストラに援用したりの解釈が定着していた。だがジュリーニは何よりバッハの偉大な作品自体に対する自身の信仰に忠実であり、イタリア人のアイデンティティの根幹といえるカンタービレ(歌謡性)を貫いた。それでいてなお宗教音楽にふさわしい峻厳さをたたえ、貴族的な雰囲気すら漂わせている。
バッケッティも時にトリル、付点リズムなどの処理を曖昧にしてまで、バッハの中に潜むありったけのカンタービレをすくい上げ、歌い上げる。国際コンクールの上位入賞者を続出してきたイモラの音楽アカデミーに学び、作曲者監修によるべリオの《ピアノ独奏曲全集》をデッカに録音するなど、経歴をみれば並外れたメカニックを備えているとの察しはつく。現代イタリアのモダンピアノの名器、ファツィオーリの美しい音をフルに引き出す力量にも感心する。でもバッケッティは自身のスペックを名技の誇示には向けず、バッハのカンタービレとリズム、様々な声部が織りなす対位法の綾をどこまでも美しく再現する目的に充てる。2012年に山崎浩太郎さんが行ったインタヴューでは「チェンバロの模倣ではない、ピアノ独自の美学による演奏を目指している」と語っているが、アーティキュレーションやフレージングにはピリオド楽器に対する豊富な知識の成果も見え隠れする。
スカルラッティやマルチェッロ、ガルッピにおける筆写譜、手稿譜に基づく新校訂譜などの編纂をバッケッティ自身が手がけている事実をみても、かなりの見識を備えた名手だ。