Ryoji Ikeda the planck universe [macro], 2015
photo: Martin Wagenhan(C)Ryoji Ikeda, Courtesy of ZKM | Karlsruhe 

 

2000年以降のコンサート作品を一眺する、“総集編”というべき池田亮司の宇宙

 ようやく暑さがおちついたと思いきや、すぐれない天候の東京ではいまもそぼふる雨の不快感に耐えながらじっと窓外に目を凝らすと糸を引く雨滴が規則的なパターンを描くのに、たとえば岡潔であれば「情緒」をおぼえ、一句ひねるように数式のひとつでも書いたかもしれないと、受験を期に理系から文系へ転向――というのも考えてみればひどいことばだが――した私などは思いもする。エモーションとロジックは一見したところ水と油だが、科学はまずもって自然を根底で規定するものを記述する書法であり、それがいかに私たちの皮膚の感覚とかけ離れていようとも自然の一部であるかぎり、無縁なはずはない、原理なのだ。

 というのを音楽に敷衍するとどうなるか。音楽を音楽たらしめるものをすべて書き記すには本稿の余白はあまりに狭いが、1950年代のケージの思想をひとつの祖型に、ポピュラー音楽をふくめた幾多の音楽の形式から、90年代なかごろに導かれた「音響」は20世紀音楽の極点だった。いや特異点といったほうがよいだろうか。私は理系少年だったころ、広中平祐のエッセイにあった「素心深考」が座右の銘だったが、その本のなかで広中博士がフィールズ賞を獲った研究テーマで「特異点」なる見慣れないことばを聞きかじったのだった。爾来なにかにつけて特異点をひっぱりだすクセがついたのは、門前の小僧のようで面目ないが、音と音楽のはざまにあって、音響はまさにそのゼロ地点を指し示していた。池田亮司がその力線をもっともシャープかつクレバーに体現していたのは、述べるまでもないが、『1000 fragments』『+/-』『0℃』――90年代の諸作で聴くことの原点をよぎった池田亮司の2000年代は、聴取にとどまらず、「みる(見る/観る/視る)」こととの総合を志向するものになった。

the radar [shanghai], site-specific installation, 2014
(C)Ryoji Ikeda Courtesy of Shanghai 21st Century Minsheng Museum
 

 2010年に初回を迎えた「KYOTO EXPERIMENT」は国内外の実験的なアート作品を舞台芸術の観点から編成する芸術祭で、かつて池田は量子力学の重ね合わせの原理をテーマにした新作「superposition」を2013年の舞台にかけたことがある。それから3年、春につづき、今年2回目となるこの秋の「KYOTO EXPERIMENT 2016 AUTUMN」に池田亮司は四つのコンサート・ピースを携えて戻ってくる。『formula』『C4I』『datamatics』『matrix』の諸作はいずれもイメージや記号や文字といった情報を構成するエレメントを、ポスト・エレクトロニカ的な音響と同期させ、私たちをとりまく時間と空間と事物を、つまり世界の把握の仕方を問い直す2000年代の池田亮司の問題の系を象徴する作品群――と聞くと、いささか難解に捉える方もおられるかもしれませんが、単独では無味乾燥な抽象物が映像のなかで矢継ぎ早に構成されていくのは息をのむほど美しい。そこには、こういってよければ、建築やデザインに通じる空間構成への意識が働いており、音と映像はシンクロし、いったいになって私たちを圧倒する。メディアアートやパフォーマンス、リレーショナルアートにいたるまで、註釈がなければなりたたない作品の向こうをはって、池田亮司の作品はそれそのものとしてそこにあらわれる。と同時に、原理としてあらゆる場所に偏在しようとする。量子のような動きをするというのはできすぎかもしれないが、4作品に通底する池田亮司の耳と目の指向と思考を体感するにはまたとない機会である。

 一方で、今世紀初頭の作品をきりとった今回の企画には池田亮司の「21世紀のレトロスペクティヴ」の趣もある。ミレニアムの一作となった『formula』にはダムタイプでも活動をともにした高谷史郎藤本隆行が参加した[prototype]からヴァージョンを重ね、今回の公開作品は[ver.2.3]。輻輳し明滅するイメージと、それがもたらす陰影の現在をまのあたりにするには京都に足を運んでいただくほかないが、のちの作品の基調ともなった『C4I』(2004年)、純抽象とでもいうべき、完成した数式やスコアだけがもちえる美観を具える2006年の『datamatics[ver.2.0]』から本邦初公開となるサイン波をもちいた『matrix』の2016年版を一挙上演することで、池田亮司はその一貫する問題意識があたかも螺旋を描き、現在にフィードバックしてくるといいたがっているかにみえる。

formula [prototype - ver.2.3], audiovisual concert, 2000-05
(C)Ryoji Ikeda photo by Eiji Kikuchi
 

 ――だけではない。会期中、会場となるロームシアター京都の中庭には巨大なスクリーンを設置し、オーディオ・ヴィジュアル・インスタレーションの新作『the radar[kyoto]』もお目見えする。リオの砂浜、ドイツの製塩装置の400メートルの壁面、フランスの美術館の外壁など、場所ごとに映像を投射する対象を変え、サイトスペフィシックというよりローカリティそのものを抽象化してみせたこの作品の京都ヴァージョンは、設置場所の緯度と経度からあおぎみられる夜空の向こうの膨大な観測データをマッピングしたイメージになるという。そう遠くない将来、人類はそこからみえる星空の天体の数以上のデータを抱えて、それでも彼らが生きのびるなら、人類の世界認識はいまとはまったくちがうものになっていないともかぎらない。聴覚と視覚の境界を超える体感するアートが一般化する時代、池田亮司の作品群はその基準点となるか特異点とみなされるか、来るべきアートの公準にまで想像を広げるまたとない機会になるだろう。

 


INFORMATION

KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2016 AUTUMN
○10月22日(土)~11月13日(日)

Ryoji Ikeda: concert pieces
会場:ロームシアター京都 サウスホール
○11月1日(火)~11月6日(日)全4作品20ステージ

池田亮司『the radar [kyoto]』(展示)
会場:ロームシアター京都 ローム・スクエア
○11月1日(火)~11月6日(日)日没-22:00 入場無料