コラム

池田亮司(Ryoji Ikeda)『music for percussion』聴こえない形、見えない構造

Exotic Grammar Vol.68-3

supercodex [live set], 2013©Ryoji Ikeda photo by Ryo Mitamura

聴こえない形・・・見えない構造・・・

 池田亮司が2016年にスイスのパーカッション・グループ〈Eklekto〉とコラボレーションし作曲した作品を収録したCD『music for percussion』が国内発売される。このCDに収められているのは世界初演のものと、スタジオで録音されたものである。2017年には京都国際舞台芸術祭において日本でも〈Eklekto〉の演奏によってその初演が果たされた。『music for percussion』というタイトルにまとめられた作品は、手と足拍子のために書かれた“Body Music [for duo], op.4”とトライアングル、クロテール(音程のある小さな青銅あるいは真鍮)そして、シンバルのために書かれた三つの作品“Metal Music op. 5”からなる。響きにくい肉体と響き渡る金属の楽器のための作品で、いずれも二人の演奏家によるデュオ。(*6曲目のみカルテット)

Ryoji Ikeda 『music for percussion』 codex|edition(2020)

 この『music for percussion』は、作品を演奏家に委ねた池田亮司自身が書いた初めての作品となったのではないかと思う。実演をレコーディングし作曲家自身によるポストプロダクションを経たのちにリリースというプロセスも随分、本来の制作とは異なったのではないだろうか。そしてこれまで恐ろしいほどに音色や音質、あるいは沈黙に至るまで行き届いた設計の生み出す禁欲的な音響の塊とレイヤーを彼固有の表現と受け取ってきた人々にはにわかに信じがたい出来事となるのではないか、と思った。この作品では常々彼が許容してきた聴き手の自由な解釈に加えて、作曲家とその作品の間に演奏家が置かれ、さらなる不確定性を彼は許したのだと思った。不純物、ノイズという言葉が適当かどうか微妙だが、彼は少なくとも作曲した音楽が演奏という物理的な空間で他者の肉体を通じ発音されるときに生じる歪みをこの作品において受け入れて、池田本人も自由な解釈を許された聴衆の一人というポジションに席をおくことになった。

 『music for percussion』の作品に付された作品番号は“Body Music[for duo], op.4”と“Metal Music, op. 5”となっていて、そこから遡ると“op.”(2003)にたどり着く。“op.”は弦楽器のための作品集だ。その作曲・制作プロセスは作曲家によって徹底的に支配され、佐々木敦氏の『(H)EAR―ポストサイレンスの諸相』(2006)によると、各パートごとにイヴェントなどの素材を採取(レコーディング)、編集、さらにミックスして作曲された音源を採譜し、演奏、そしてまた録音という作業が繰り返されて作品が出来上がったという。こうやってそのプロセスを書いてみると、音楽学者伊東信宏氏が語る、20世紀初頭にバルトークが民謡を素材にして書いたピアノとヴァイオリンのための作品“ラプソディー・第一番”の作曲プロセスを思い出してしまう(「楽譜でわかる20世紀音楽」アルテス出版、2020)。録音ー採譜ー素材の構成、編集ー修正、校正が繰り返されてその曲は最終稿に至っている。CDには“op.1”.のプロトタイプ (1、2、3、4)、つまり音によるスコアが収録されていて、アンサンブルによる実演の再録と比較できる。プロトタイプの各パートの響きが交わらない、アンサンブルの冷たい響きは一種異様であり、それに対して実演による再録は冒頭から生々しく楽器が擦れ響き合う。後者(CDではTrack 1-6)には作曲家として池田がコンセプチュアルに作品を独占しない姿勢 (演奏家への譲歩)が垣間見れたと思っていた。しかし、彼は何故この音響スコア、プロトタイプをCDに再録したのだろうという疑問がこのCDを聴いた後に残る。

 『music for percussion』に寄せられたライナーノートには、Body Musicの先例としてスティーヴ・ライヒの“Clapping Music”(1972)への言及がある。さらにフラメンコやカッワーリについても触れている。ライヒは“Clapping Music”を作曲するにあたり、ヨルバのベル・パターン(アフリカ音楽における、キューバ音楽のクラーヴェのような存在) に近似した音形を用いている。しかし八分音符一個の位置を変えただけというその手拍子を聴いてヨルバやアフリカの音楽を思い起こして踊り出してしまうようなリスナーを想像するのは、池田の“Body Music”を聴いてフラメンコのパルマ(手拍子のような)に合わせて踊るダンサーを想像するのと同じくらい難しいだろう。ライヒはかねてよりアフリカ音楽への関心は音色やそのテクスチュアではなく、その音楽を発生させる構造にあることを表明してきた。「私はその音楽のリズムの構造に関心があったのです。アフリカ的な音を求めていたのではないし、アフリカ的に考えたかったわけではない」(Reich, 2000, p. 148)。池田の“Body Music”は、“Clapping Music”のライヒのこの方向性を共有する。

TOWER DOORS