インタビュー

TWINKLE+『JAPANESE YEDO MONKEY』星が瞬く夜に、黒船の申し子がSUMMITから前線復帰!

【SPEAKING OF DIVERSITY】Pt.5

SPEAKING OF DIVERSITY
[ 特集 ]日本語ラップの多様性
悠長に振り返ってるヒマもないくらい、進行形の注目作がリリース・ラッシュ。こんな多様に拡張しているからこそ、日本語ラップの最高はひとつじゃないのだ!

★Pt.1 MONYPETZJNKMN『磊』
★Pt.2 SALU『INDIGO』
★Pt.3 春ねむり『アトム・ハート・マザー』
★Pt.4 野崎りこん『野崎爆発』

 


TWINKLE+
星が瞬く夜に、黒船の申し子がSUMMITから前線復帰!

写真/cherry chill will

無冠のホープ

 「五つ星っていうクルーをやってたんですよ。アルファのWADA君とかもメンバーで、それぞれみんな星があって、っていう感じの5MCで。その時に、僕は背がそんなに大きくないんで、TWINKLE LITTLE STARって長い名前にしてたんです。で、ある時、BUDDHA BRANDのライヴに行った時に、デミさん(NIPPS)に〈TWINKLE LITTLE STARです〉って名乗る機会があって、その後にデミさんからTWINKLEって短く呼ばれて。最初は間違えてティンカーベルって呼ばれたんですけどね(笑)。コンさん(DEV LARGE)がそれをFRONT誌で〈ティンカーベル〉って書いちゃってて、結果、その後お会いする時に〈コンさん、違います〉って、もう一度言うことになるんですけど。まあ、デミさんは何の気なしに短くされたんでしょうけど、自分はファンだったし、それが気に入ってしまって」。

 知ってる人は知っている。知らない人はいま知るといい。TWINKLE+といえば、かつてD.LことDEV LARGEの導きでNIPPSの“VENOM 2002”(2002年)に客演して脚光を浴び、D.LとKZAを中心としたHELL RAISER CARTELの“SUPER EMCEE'S PT.1(LETHAL WEAPON PT.2)”(2002年)や、D.Lの『THE ALBUM』(2006年)においても見せ場を用意されてきた期待のホープだった。ざらついた低音の野太い声、いなせな江戸っ子気質の語り口は個性的なもので、当時はフックアップの経緯も相まって〈DEV LARGEの秘蔵っ子〉という見え方もされていた人だが、結局は自身の作品を出すことはなく、表舞台でその名を見ることもなくなっていった。そんな無冠の大器が今回SUMMITからファースト・アルバムをリリースするというのだから、彼の名を記憶している人ほど驚いたに違いない。

 東京生まれの東京育ち。もともと90年代の〈日本語ラップ・ブーム〉に触発されてラップに興じるようになったTWINKLE+は、黒船が来航した96年に洛陽船というグループで活動を開始している。

 「“今夜はブギー・バック”あたりに影響を受けたのが高校生くらいですかね。その後ラジオの『Hip Hop Night Flight』を知ってからは、周りの影響もあってMICROPHONE PAGERやBUDDHA BRANDのようなコアなものに影響を受けはじめて。洛陽船を組むchee-tah man jackとか、アルファも一緒にラップやってたんですけど、カラオケのつもりで歌ってたのが、どんどん自分たちもリリックを書き出したのがスタートでした」。

 そんな洛陽船の最初期の録音となるのが、アルファの初作『アルファ葉』(2000年)に収録の“サムライ”。なお、絶妙に渋いネーミングは、「三国志」から取ったものだという。

 「横山光輝さんの漫画のほうが強いですけど、chee-tah man jackも『三国志』を読んでたんで、話題がよく出てきまして。劉備玄徳が母親に高級なお茶を買いに行くシーンが最初のほうにあって、〈月に一度、洛陽から高価な物や珍しい物を運んでくる船〉っていう説明書きがあったんですね。で、クラブのイヴェントはだいたい月に1回で、高価なものとか珍しいものっていうのは自分たちの楽曲、っていう感覚で……まあ、我々が洛陽船としてクラブっていう港に良いものを届けに行くっていう、そんなイメージで付けたのかな。20年前よりは説明も少し上手になってるはずなんで、ちょっと枝葉が付いてるかもわからないですけど(笑)」。

 その後、先述したようにスポットを浴びたTWINKLE+ではあったが、結果的には飲食の仕事を本道に。一方で、洛陽船の頃からの同級生でもあった友人のK-Beat+と新たに雑草'Zを結成し、ラップはあくまでもマイペースな趣味の範疇に止めていた。

 「コンさんにも言われてました。JINROのCM(2009年)でラップさせていただいた時に、〈良いタイミングだから5曲くらいでも作品にしたら?〉とか、凄い助言もいただいてましたけど、結果的に自分が怠け者だったんですかね。ただ、K-Beat+の家がスタジオみたいになってて曲はチコチコ作ってたので、出来たものは全部コンさんに聴いてもらってました。亡くなる半年くらい前ですか、その頃にけっこうデモが上がってて、〈これはこうしようよ〉とか、6~7曲ぐらいの枠でまとめようみたいなアドヴァイスをいただいてましたね」。

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